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文化財研修記

紅葉の南禅寺・智積院 秋の文化財研修終了

綾部の文化財を守る会の第16回秋の文化財・史跡学習会
臨済宗南禅寺派大本山・南禅寺と真言宗智山派総本山・智積院を訪ねて」は
11月18日(木)バス2台:74名の参加を得て、紅葉の見事な名勝庭園を訪れました。
天気にも恵まれ、静かな京都の秋を楽しむ一日を過ごしました。
順次当日の記録をこの文化財日誌で掲載します。


南禅寺三門(国重文)前にて 2号車(38+2名)京都バスガイド・林千鶴様(京都散策愛好会)

南禅寺三門(国重文)前にて 1号車(36+2名)京都バスガイド・田中雅章様(京都散策愛好会)

総本山・智積院金堂をバックに 1号車(36+2名)同上

総本山・智積院本堂をバックに 2号車(38+2名)同上)

写真撮影反省記>
国重文の南禅寺三門(参道から南禅寺境内への入り口)に向かう石段にバスツァ2号車の一行が並び三脚をセット、
大きな三門全景と一行の記念写真を撮影するため、絞り優先モードで、画面中央より人物は下にあるので、その分カメラを傾けマニュアルにて中心の人物にピントを合わせる。
レリーズを使用するので、スタビライザー(振れ止め)もオフ。ストロボの点灯も確認。
撮影準備が整ったところで、いきなり「三脚使用禁止」の待ったが入った。

ここで小休止しじっくり考えれば良かったのだが、三脚を参道際に放り出し、手持ちでピントを一行に合わせ、両側の人通りの少ないタイミングを狙って、三門の全景とともに撮影。3ショットを撮影。◎手振れ止めのセットを忘れた!・大失敗!!

続いて1号車の一行を迎え、同様に1ショット目を撮影、ここでスタビライザーにやっと気付き「オン」にする。3ショット目は焦点合わせも自動「オン」で撮影した。

結果、スピード優先でないので、シャッター速度遅く、手振れが入っている模様。撮影後カメラで撮影済み人物像を確かめ、失敗を確認してバスで失敗を報告しお詫びを済ませた。
しかし帰ってからパソコンでみると何とかなりそうな様子。何時も世話になっているカメラ屋さんで何とか助けてもらえることを期待している。

何故、三脚禁止だったのか?
参道から三門を入ってからの南禅寺境内地内でないので、下見に行かれた役員方も気付かれなかった由。見学後に三門に出てくると、片側で写真屋さんが数組、お立ち台を用意してお客待ち中だった。この石段で撮ることは写真屋さん達は出来ないので、別途お立ち台を準備して三脚が据えられていた。今後は、ご商売の有無を確認して準備する必要がある。

反省記2>智積院での撮影でストロボのスイッチが入っていなかった。
智積院会館・一休庵で昼食後、事務局長に写真撮影の場所を見に行き決定したいと誘われる。場所を決め一休庵に戻り、これからカメラの用意をすると伝える。バス運転手一行の食事場所を聞き、バスガイドさん同行でカメラを取りにバスへ行く。

バスは随分遠くに駐車していたので、回覧中の文化財日誌合計5冊を1号車、2号車入れ替え、カメラを持って近道して撮影場所に戻る。三脚を立て、カメラ撮影の準備を整える。一行が遅いのでしばらく待たされる。ストロボ表示が消えているので一旦ストロボを切る。

一行が続々やってきたが、いきなり一人足りないので捜していたと云われる。そんなちゃんと伝えておいたのにと返事、それで撮影場所を示し一行に並んでもらい撮影に入る。
1号車に続き2号車の一行にも並んでもらい撮影。

◎ストロボのスイッチを入れ直すのを忘れたまま! 2号車の撮影の最後に森本さんにレリーズを渡し、私も写真に加わり撮影が終わった瞬間、ストロボが光らないので気がついた。

結局、顔に影が出来た人もある。明度修正で直る程度で助かった。今まで何十回もこの文化財研修旅行の記念写真を撮ってきたが、毎回なにか違った新しい失敗をしている!
もう「焼きが回った感じ!」 代わってもらえる人はいないし、本当に困ったものだ!

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文化財研修記

京都府下唯一火山口の確認できる天田郡夜久野町の自然と文化財を訪ねて!(最終回)

11月13日(土)綾部市郷土史自主講座のメンバー31名で、京都府下唯一火山口の確認できる田倉山(349.7M)や京都府下でもっとも多くの化石を持つ「福知山市夜久野町化石博物館」等を日帰り研修で見に出かけた。今回は最終回で「夜久野茶堂」詳しくは説明版を見て下さい。そして応仁の乱で丹波守護細川勝元と但馬守護山名宗全の戦い所謂「夜久野(やくの)合戦」で東軍細川方に味方した、京都府八木城主の内藤孫四郎の首塚(宝篋印塔)をみます。

1.夜久野茶堂について説明される綾部史談会副会長の川端二三三郎先生


2.夜久野茶堂の説明板


3.夜久野茶堂の境内の巨大な五輪塔・文化九年(1812)の銘が刻まれていた。


4.この茶堂は本尊不動明王と弘法大師を祀っているのでここには弘法大師の88ヶ所
石仏めぐりの基点となっています。その説明版は下記に掲載。


5.88ヶ所石仏めぐり1番札の仏像は四体で下記の写真です。


6.同上 隣に2番札の2体の石仏は下記の通りです。この茶堂が基点なので他に70番、72番が本堂後部にあります。


7.内藤孫四郎首塚((宝篋印塔)は玄武岩公園の反対側の展望台の右手にあります!


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文化財研修記

京都府下唯一火山口の確認できる天田郡夜久野町の自然と文化財を訪ねて!3。

11月13日(土)綾部市郷土史自主講座のメンバー31名で、京都府下唯一火山口の確認できる田倉山(349.7M)や京都府下でもっとも多くの化石を持つ「福知山市夜久野町化石博物館」等を日帰り研修で見に出かけた。今回の報告はNO。3.は夜久野ふれあいプラザで理学博士・小滝篤夫先生からスライドを使っての「夜久野田倉山の3度の噴火と地質」について講演を受けてフイールドワークにでかけた。

1.夜久野ふれあいプラザで理学博士・小滝篤夫先生より「夜久野の地質」の講演を受けてから地質のフイールドワークに出かける。


32.田倉山(たくらやま)火山の地質マップ


33.火山灰層の観察(農匠の郷近辺)「上の層の黒ボクは、火山灰とイネ科の植物の腐植の混合物である。火山灰は7300年前アカホヤ火山灰で鬼界カルデラ(鹿児島県硫黄島付近)からとんできたものである。


34.田倉山標高349.7メートルその山の真ん中の低い所が火口です。


35.手前の低い森が田倉山の噴火の溶岩で出来た森です。


36.やくの玄武岩公園


37.京都府指定天然記念物の夜久野玄武岩柱状節理


38.同上(田倉山から噴火した溶岩が固まるときこの様に40から50センチメートルの丸で人口物のような不思議な形となっています!


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文化財研修記

京都府下唯一火山口の確認できる天田郡夜久野町の自然と文化財を訪ねて!2.

11月10日(土)綾部市郷土史自主講座のメンバー31名で、京都府下唯一火山口の確認できる田倉山(349.7M)や京都府下でもっとも多くの化石を持つ「福知山市夜久野町化石博物館」等を日帰り研修で見に出かけた。今回の報告はNO。2.で首記や久野町化石郷土資料館を紹介します。1.夜久野町の化石時代のの始まり=最古の化石は古生代ペルム期「二畳紀(にじょうき)」に属するものです。白い石灰岩となった状態ので確認される事が多く、フズリナ、ウミユリ、腕足類(わんそくるい)があります。2.夜久野を代表する化石はアンモナイト全盛期で古生代から中生代にかけて、約3億5000万年もの間、海洋に広く分布した生物です。アンモナイトはオオムガイから分化したと考えられていますがイカ,タコに近い生物との説が有力です!3.新生代中世紀(2300万年前)=夜久野町の北西部の鉄鈷山(かなとこやま)標高755メートルから500メートル付近までに産出した化石はこの時代の標準化石の巻貝のビカリアなど、多くの海生貝類です。4.新世紀第四紀(37万年から30万年)京都府唯一の火山口をもつ田倉山の3度の噴火でできた溶岩・夜久野玄武岩柱状節理(京都府指定文化財)之は後ほど掲載します。入館料大人100円のみ20名以上の団体は80円、中学生以下は無料なので夜久野ドライブインから車で3分なので是非見て下さい。

1.福知山市・夜久野町化石郷土資料館


2.パンフレット


3.種々のパンフレットを貰うメンバー


4.夜久野町化石・郷土資料館の展示している化石の多くは、夜久野町の化石研究者である古井昌平氏(当館名誉顧問、益富地学会員)の採集・蒐集活動による資料を中心に、いろいろな方々が発見した化石を元に構成されています。夜久野町で採取された化石を中心に世界各地の化石が約1000点、その他地質資料や遺跡から出土した考古資料などの展示品もあります。熱意を込めて説明される古井昌平氏です!


5.同上 その2.


6.同上 その3.


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文化財研修記

京都府下唯一火山口の確認できる天田郡夜久野町の自然と文化財を訪ねて!1.

11月10日(土)綾部市郷土史自主講座のメンバー31名で、京都府下唯一火山口の確認できる田倉山(349.7M)や京都府下でもっとも多くの化石を持つ「福知山市夜久野町化石博物館」等を日帰り研修で見に出かけた。今回の報告はNO。1として、綾部市にある全国安国寺の筆頭の綾部安国寺(元・光福寺)で生まれた室町幕府初代将軍・足利尊氏公の母上の上杉清子が田畑を寄贈した夜久野町の今西中にある臨済宗妙心寺派の古刹「大智寺」を訪れた。この阿弥陀堂のご本尊は半丈六仏「145.2CM、丈六とは一丈六尺)」寄木造、彫眼、漆箔彩色(布張り下地)11~12世紀の定朝様で在地仏師の作か?元文3年(1738)補作、明治31年追記で福知山市の指定文化財である。他にも福知山市の指定文化財があるので順次紹介します。尚福知山市と合併前は天田郡夜久野町であり「天田郡観音霊場33ヶ寺の第32番札所」でもある。

1.大智寺への参道


2.大智寺の三門


3.金堂の入口にある見事龍の彫刻の「脚下照願」


4.阿弥陀堂への入口


5.阿弥陀堂手前左手にある石仏群・特に目立つのは一番左手の宝篋印塔である。形から云って鎌倉時代のものである?


6.福知山市指定文化財の阿弥陀如来坐像(半丈六仏)の説明をされる蒔田耕硯住職


7.見事な阿弥陀如来坐像(半丈六仏)福知山市指定文化財


8.福知山市指定文化財の仏像郡「(大智寺の平安仏)仏教大学宗教文化ミュージアム」出版本による!菩薩立像8体、天部立像4体(いずれも一木造りで平安時代末期の作である。


9.祭事の時、仏像をを乗せ本堂に移す珍しい輿。


10.天田郡観音霊場第32番札所の観音堂内の聖観音菩


全国安国寺の筆頭・綾部安国寺は下記をクリックして見て下さい!
http://ayabun.net/bunkazai/annai/ankoku/ankokuji.htm

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文化財研修記

関西花の寺25ヶ寺第一番札所「丹州丹波のあじさい寺・観音寺」

京都府福知山市「元天田郡(あまだぐん)」のJR石原駅近くには関西花の寺第一番札所で真言宗の「丹波のあじさい寺と呼ばれる観音寺」がある。江戸時代の田沼時代には、四男が隣の何鹿郡(いかるがぐん)の綾部九鬼藩に婿入りした時には、領地代えで綾部藩に所属した時もある。ちなみに関西花の寺第二番札所は綾部市にある。最後にクリックして見えるようにした。この観音寺は奈良味代(720)年に法道仙人によってご本尊「十一面千手千眼観世音菩薩(霊佛観音)」が刻まれ、以後、丹波地方の観音信仰の中心のお寺として栄えてきた古霊場です。明智光秀の丹波攻めの際、反抗したため仁王門以外は全て全山焼滅したが3年後には再建され、江戸時代には有馬・岡部・稲葉氏ら歴代の福知山藩主に庇護されたが、次第に衰退していった。現在の本堂(観音堂)は寛政7年(1795)頃の再建である。仁王門も創建当時の平安時代のものが明治29年(1896に倒壊したので昭和6年(1931)に鎌倉時代様式で再建されている。
拝観料は200円のみです。

1.第一山門
あじさい寺・観音寺にて

2.仁王門
あじさい寺・観音寺にて

3.仁王門の阿形(福知山市市重要資料)
あじさい寺・観音寺にて

4.仁王門の吽形
あじさい寺・観音寺にて

5.第二山門への参道
あじさい寺・観音寺にて

6.珍しい宝珠のような手水舎(真言宗では龍の口から水がでている場合が多い)
あじさい寺・観音寺にて

7.第二の山門(表門、京都府指定文化財)
あじさい寺・観音寺にて

8.境内の中の「七観音霊場めぐり」その一。千手観世音菩薩像
あじさい寺・観音寺にて

9。その二。馬頭観音像
あじさい寺・観音寺にて

10.馬頭観音像横から展望台へ登り、観音寺・興、そして綾部市の国の重文の「私市円山古墳(きさいちまるやまこふん)が右手奥に見える
あじさい寺・観音寺にて

11.その三。十一面観音像
あじさい寺・観音寺にて

12.その四。聖観音像
あじさい寺・観音寺にて

13.その五。如意輪観音像
あじさい寺・観音寺にて

14.その六。不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)像
あじさい寺・観音寺にて

15.弘法大師空海の手掘りの井戸
あじさい寺・観音寺にて

16.その七。准胝(じゅんてい)観世音菩薩像
あじさい寺・観音寺にて

17.本堂(観音堂)京都府指定文化財
あじさい寺・観音寺にて

18.八体佛「ひとそれぞれの干支(えと)の守護仏を待っている」
あじさい寺・観音寺にて

19.可愛い小僧さんの石仏で思わず撮影!
あじさい寺・観音寺にて

20.水子地蔵菩薩堂内と水子地蔵菩薩様
あじさい寺・観音寺にて

21.関西花の寺25ヶ寺案内パンフレット
あじさい寺・観音寺にて

関西花の寺第二番札所は綾部市館町の「丹波のカラス寺こと楞厳寺’(りょごんじ)は下記をクリックして見て下さい。
http://ayabun.net/bunkazai/annai/ryogonji/ryogonji2.html
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/268.html
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/269.html

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!第11回(最終回)天理大学附属「天理参考館」その2

初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!第11回(最終回)天理大学附属「天理参考館」その2  文化財研修記
初夏の奈良の国宝・文化財をたずねて!は今回で最期です。国宝は国の重要文化財に指定されたものから、選ばれて国宝指定となります。日本の国宝は平成20年1月で1,074件です。第1番目が京都府で255件(京都府北部唯一の綾部市の上林の光明寺の二王門の建物を含みます。)、第2番目が奈良県214件、第3番目が首都東京都の207件、第4番目が滋賀県の56件、第5番目が大阪府の48件,第6番目が和歌山県35件、第7番目が兵庫県で18件、同神奈川県18件が主たる国宝を持つ都道府県です。今まで北海道にはありませんでしたが平成19年函館市の著保内(ちょぼない)遺跡で日本最大級の四十二センチメートルの土偶が日本第二番目の土偶の国宝に指定されました。従って国宝の無いのは、群馬・徳島・熊本・宮崎の4県のみです。最終回となった「天理大学附属天理参考館」は3階建ての素晴らしい博物館で当会「綾部の文化財を守る会」では平成23年度の春の研修旅行の最期に組み込む予定です。尚、「庶民の暮らし」として日本の古い見事な人形「傾城・阿古屋(明治16年作、高115.5センチ)や民俗民具なども展示されていますので、チャンスがあれば是非見てください。午前9時30分から午後4時30分開館、入館料400円、火曜日は休館です。

1.2階「神々の息ずくメキシコ」古代文明の記憶展
天理大学附属「天理参考館」にて

2.展示品
天理大学附属「天理参考館」にて

3.ミルタのサボテカ遺跡のもの
天理大学附属「天理参考館」にて

4.メキシコ各地の服装
天理大学附属「天理参考館」にて

5.3階、中国唐の時代「唐三彩と素焼きの像」
天理大学附属「天理参考館」にて

6.奈良県天理市の「布留(ふる)遺跡」図
天理大学附属「天理参考館」にて

7.同上遺跡の出土品
天理大学附属「天理参考館」にて

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!第10回天理大学附属「天理参考館」その1

今回は天理市の天理大学附属「天理参考館」を訪れ見学します。入館料は1人400円で見る価値は十分にありますので2回にわたって紹介します。参考館の案内資料よりの抜粋文「当館は,海外に渡り,天理教を広めようとする人々が諸外国の生活習慣や歴史などの知識を深めるため、中山正善天理教二代真柱(しんばしら)によって、1930年(昭和5)に創設されました。外国へ出かけて、教えを伝えるには、その土地の言葉を習得するだけでなく、その背景にある人々の考えや生活文化への理解が必要です。又当然のことながら日本の文化に対する知識も持っていなければなりません。このような考えで国内外から集められた収蔵品は、民族資料と考古学資料に分かれており、30万点に及ぶ収蔵資料から3,000点を展示しているこの新築「天理参考館」は平成13年(2001))に開設しました。

1.天理大学附属「天理参考館」3回建て素晴らしい展示です
天理大学附属「天理参考館」にて

2.会場マップ
天理大学附属「天理参考館」にて

3.エントランスホール内の巨大な「オルメカ石頭像」(レプリカ)はメキシコ国のベラクルス州のオルメカ遺跡で発見され本物はベラクルス博物館で展示されています
天理大学附属「天理参考館」にて

4.インドネシアノバリ島のもの
天理大学附属「天理参考館」にて

5.台湾の帆掛舟(テッパイ)全長710CM(20世紀のもの)
天理大学附属「天理参考館」にて

6.チベットの羊皮袋の筏(いかだ)
天理大学附属「天理参考館」にて

7.2階から1階の船を見下ろす
天理大学附属「天理参考館」にて

8.移民と伝道(日本から南北アメリカへ)
天理大学附属「天理参考館」にて

9.天理教サクラメント教会等で当時使われていたもの
天理大学附属「天理参考館」にて


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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!第9回石上神宮その2

奈良県桜井市には日本でも古い歴史を有する「石上神宮(いそんかみじんぐう)」がる。祭神の布都御魂神(ふつみたまかみ)は、神武天皇が大和に入った時、武甕雷神(たけみかづちのかみ)が帯びていた平国之剣(くにむけのつるぎ)であり、この地に祀られたものという。「日本書記」によれば、神武天皇が即位ののち物部氏の遠祖の宇摩志麻治命(うましまっじのみこと)にこの剣を与え、宮中に奉祀させた。宇摩志麻治命は父・饒速日命(にぎはやひのみこと)が降臨した際に天津御祖(あまつみおや)が賜った10種の神宝を天皇に献上し、御盾(みたて)を祀ったという。元の神宮は今の石上神宮の東方1.5キロの布留川上流の桃尾(もものお)の滝近くにあり、崇神天皇の時、この地を本拠地とした物部香色雄(もののべのいかがしこお)に命じて石上卿の高庭のこの地に移したという。この神宮には皇室・出雲国造「いずものくににのみやつこ、(又はいずもこくそうとも現在の出雲神社では読んでいる)」と同じく、世襲の忌火(いんび)職があり、江戸時代まで物部氏の本宗として、代々森家が務めた。現在の宮司様も森家の出身です。次回は天理大学付属「天理参考館」です。

1.七支刀(しちしとう)国宝で刀身の左右に3本ずつの枝が交互に出ている特異な鉄剣である。剣身両面に金象嵌(きんのぞうがん)の銘が刻まれている。この七支刀は銘文から百済王が東晋の泰和(太和)四(369)年に倭王に献上するために造ったもので「日本書記」神功皇后52年条にみえる百済から贈られた七支刀にあたると考える説もある(写真のみ掲載)
石上神宮にて

2.江戸時代の「竜吐水(りゅうどすい)」現在の消防ポンプです
石上神宮にて

3.国宝の拝殿から国の重要文化財の「楼門」を見ると随分遠に見える!
石上神宮にて

4.国宝の「石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿」(いそのかみじんぐう、せっしゃ、いずもたけおじんじゃはいでん)天理市の杣之内町にあった内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守社の拝殿を,大正三(1914)年に移築したもの。正面五間のうち、中央の一間は分は土間とし、「馬道(めどう)」と呼ばれる通リ口としている。この形式は「割拝殿(わりはいでん)」と呼ばれこの建物は現存最古のものである
石上神宮にて

5.摂社「天神社」
石上神宮にて

6.末社「祓戸神社」
石上神宮にて

7.正面の上から見た国重文の「楼門」
石上神宮にて

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!第8回・国宝の拝殿と有名な七支刀を持つ石上神宮その1

奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)は式内社(明神大社)で旧社格は官幣大社です。中世には日本の二十二社の一つとされていました。当神宮は古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で「古事記」「日・本書記」に既に,石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代の軍事氏族の物部氏が祀祀して、大和朝廷の武器庫の役割も果たして来たと考えられている。
祭神は布都御魂神(ふるみたまかみ)と布都斯御魂神(ふつしみたまかみ)で、「布留の社」と呼ばれ大神神社(おおみわじんじゃ)と並んで我国最古の神社と考えられている。

1.石上神宮碑
石上神宮にて

2.登り参道
石上神宮にて

3.登り参道の途中左側にある「柿本人麻呂の歌碑」未通女等之 袖振山乃 水垣之久時従億寸吾者(おとめが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは)「布留山(石上神宮の背後の神山、転じて石上神宮境内)に瑞垣(拝殿背後の禁足地の垣)が出来た昔からあなたのことを思っていました」
石上神宮にて

4.鳥居の上の扁額
石上神宮にて

5.国の重要文化財の「楼門」文保2年(1318)建立
石上神宮にて

6.国宝の拝殿(入母屋造、桧皮葺き、鎌倉時代)
石上神宮にて

7.国宝の拝殿内部(本殿は無い)
石上神宮にて

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて第7回・国宝の十一面観音像を持つ聖林寺

奈良県桜井市の多武峯(とうのみね)山麓にある真言宗「聖林寺(せいりんじ)」は藤原鎌足公の長男・定慧(じょうえ)和尚が和銅五年(712)に創建したといわれています。ここからは眺望が良く三輪山や大和盆地がみえます。尚この寺の本尊は石造延命地蔵で安産・子授けの地蔵として知られています。更に国宝の十一面観音像は木心乾漆(きずくりかんしつ)で、高さ196.4センチメートル、流麗な衣文(えもん)の天平時代後期の代表的な仏像です。元は大神神社の神宮寺であった大御輪寺の本尊でしたが明治の廃仏毀釈のとき、当寺に移されました。この寺の裏の山は小倉山であり万葉集に舒明天皇が読んだ歌「夕されば 小倉の山に鳴く鹿は 今宵(こよい)は鳴かず寝(い)ねにけらしも」(巻八・1511)京都の平安京が出来た時に同じ名前の小倉山を名付けたという。次回は天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)です。

1.聖林寺への案内看板
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

2.聖林寺下の墓地
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

3.聖林寺
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

4.聖林寺三門
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

5.聖林寺から三輪山と」大和盆地を見る
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

6.梵鐘
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

7.本堂その1
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

8.本堂その2
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

9.国宝十一面観音立像(上半身のみ、宝相華唐草の光背は奈良国立博物館に寄託中)
国宝の十一面観音像を持つ聖林寺にて

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!その6.大織冠・藤原鎌足を祀る談林神社その2

奈良県桜井市はその山頂(標高608メートル)付近にある。藤原鎌足を祀る旧別格官幣社である。建物の多くはあでやかな朱色に彩しられ、春はサクラ、秋は紅葉覆われている。いわば関西の日光であるとも言われている。多武峯の駐車場から天を突く杉の木立が続くが是が参道である。談林神社は明治の廃仏毀釈で神社になる前は、多武峯寺、多武峯と称する寺院であった。参道入口には江戸時代の両袖付きの高麗門である東大門があり、門の手前に「女人堂道」と記した石標がたっており、多武峯は女人禁制であったことを示している。舒明・皇極二代の天皇の世、曽我蝦夷と入鹿の勢力は強まり、国の政治を欲しいままにしていた。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足)は強い意志で国家のあり方を考えておりました。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で聡明な皇太子と知られていた中大兄皇子の蹴鞠の靴をひろい見しりあっていた中大兄皇子と西暦645年の5月二人は多武峯の山中に登り、「大化の改新」の談合を行ったのです。後にこ野山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び談林神社の社号の起こりとなりました。鎌足は天智天皇(元、中大兄皇子)の元で日本を世界に誇る国家にするため一生涯を国政に尽くしました。天智天皇8年(669)鎌足公病床の時、大織冠(だいしょくかん)を授け内大臣に任じ藤原の姓を与え、ここに藤原の姓が始まったのです。鎌足没後、長男の定慧和尚は留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峯に墓を移し、十三重塔を建てました。大宝元年(701)に神殿が創建され、鎌足公の御神像を祀り今日に至ります。尚、談林神社の裏の御破裂山(標高607メートル)には鎌足公の墓所があり国家異変の場合に本殿(松霊院)に祀られている鎌足公の神像が破裂するといわれ、中期以降は藤原一門を震害させ、都から告文使が送られ奉幣祈願の儀式が行われてきた。次は国宝の十一面観音立像を持つ聖林寺です。

1.談林寺周辺マップ
藤原鎌足を祀る談林神社にて

2.神廟拝所内16歌仙
藤原鎌足を祀る談林神社にて

3.国重要文化財の室町時代の十三重塔(各層は3間、屋根は桧皮葺で初重の屋根を特に大きくし、二重以上は軸部を非常に短く造り、頂きに青銅の相輪をのせている)
藤原鎌足を祀る談林神社にて

4.国重要文化財・楼門(江戸時代)
藤原鎌足を祀る談林神社にて

5.西側の校倉(あぜくら)造りの西宝庫(国重文、江戸時代)
藤原鎌足を祀る談林神社にて

6.国重文・朱塗りの楼門(江戸時代)
藤原鎌足を祀る談林神社にて

7.鎌足公長男の定慧が唐から持ち帰り植えた「菴羅樹(あんらじゅ)」の木
藤原鎌足を祀る談林神社にて

8.楼門内から本殿を拝する
藤原鎌足を祀る談林神社にて

9.本殿(国重文、旧寺の聖霊院で三間社・隅木入りの春日造りで朱塗りの上に極彩色の装飾施し、内部に藤原鎌足公の木像を安置している)
藤原鎌足を祀る談林神社にて

10.拝殿内の藤原鎌足公の肖像画の掛軸
藤原鎌足を祀る談林神社にて

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!その5.大織冠・藤原鎌足を祀る談林神社その1

奈良県桜井市のJR桜井駅かの南方に広がる山麓一帯を多武峯(とうのみね)と呼ぶが、談林神社はその山頂(標高608メートル)付近にある。藤原鎌足を祀る旧別格官幣社である。建物の多くはあでやかな朱色に彩しられ、春はサクラ、秋は紅葉覆われている。いわば関西の日光であるとも言われている。多武峯の駐車場から天を突く杉の木立が続くが是が参道である。談林神社は明治の廃仏毀釈で神社になる前は、多武峯寺、多武峯と称する寺院であった。参道入口には江戸時代の両袖付きの高麗門である東大門があり、門の手前に「女人堂道」と記した石標がたっており、多武峯は女人禁制であったことを示している。舒明・皇極二代の天皇の世、曽我蝦夷と入鹿の勢力は強まり、国の政治を欲しいままにしていた。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足)は強い意志で国家のあり方を考えておりました。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で聡明な皇太子と知られていた中大兄皇子の蹴鞠の靴をひろい見しりあっていた中大兄皇子と西暦645年の5月二人は多武峯の山中に登り、「大化の改新」の談合を行ったのです。後にこ野山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び談林神社の社号の起こりとなりました。鎌足は天智天皇(元、中大兄皇子)の元で日本を世界に誇る国家にするため一生涯を国政に尽くしました。天智天皇8年(669)鎌足公病床の時、大織冠(だいしょくかん)を授け内大臣に任じ藤原の姓を与え、ここに藤原の姓が始まったのです。鎌足没後、長男の定慧和尚は留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峯に墓を移し、十三重塔を建てました。大宝元年(701)に神殿が創建され、鎌足公の御神像を祀り今日に至ります。

1.談林神社周辺マップ
藤原鎌足を祀る談林神社にて

2.談林神社全景
藤原鎌足を祀る談林神社にて

3.旧別格官幣社「談林神社」
藤原鎌足を祀る談林神社にて

4.鳥居と140段の石段
藤原鎌足を祀る談林神社にて

5.途中から左側へ向い入山して行く
藤原鎌足を祀る談林神社にて

6.国重文の総社本殿(江戸時代)
藤原鎌足を祀る談林神社にて

7.国重文の定慧和尚が創建した「閼伽井屋(あかいや)」創建時、この井戸から龍がでたといわれている。(江戸時代)
藤原鎌足を祀る談林神社にて

8.国重文の「神廟拝所」(元、講堂)
藤原鎌足を祀る談林神社にて

9.大和七福八宝「福禄寿大師」毎年1月3日大祭が行われます
藤原鎌足を祀る談林神社にて

10.神廟拝所入口から十三重塔を見る。この前の広場は「けまりの広場」と呼ばれ毎年4月29日(祝)「春のけまり祭」11月3日に「けまり祭」が行われます
藤原鎌足を祀る談林神社にて


<11.国重文の神廟拝所への入口a href="//blog-imgs-48-origin.fc2.com/a/y/a/ayabebunkazai/1278390948.jpg" target="_blank">藤原鎌足を祀る談林神社にて

12.如意輪観音坐像
藤原鎌足を祀る談林神社にて

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!その4.国宝・重文の山・當麻寺その4.別格本山・当麻寺中之坊

既に当麻寺の由緒、中将姫信仰物語など掲載して来ましたが、高野山真言宗別格本山當麻寺中之坊は白鳳時代(7世紀末)の當麻寺開創に伴い、役行者(えんのぎょうじゃ)が道場として開いたのが中之坊で、天平期(8世紀)、十一世実雅上人(中将姫の師)の代に當麻寺住職の住房「中院御坊」として成立。以来、山内の筆頭寺院として代々當麻寺を護持してきた。弘仁時代(9世紀初)十四世実弁上人が弘法大師空海に教えをさずかり、以後、當麻寺は真言宗の霊場となり、今も中之坊は別格本山として大師信仰、観音信仰の中心を担っています。次回は桜井市の山奥にある(山を越えると明日香村)藤原鎌足を祀る「談山神社」を訪れます。

1.大和三名園の1つの案内駒札
當麻寺中之坊にて

2.国の重要文化財の書院
當麻寺中之坊にて

3.松尾芭蕉句碑
當麻寺中之坊にて

4.本堂「中将姫剃髪堂、導き観音を祀る、大和七福神霊場」その1
當麻寺中之坊にて

5.同上 その2
當麻寺中之坊にて

6.茶筌塚
當麻寺中之坊にて

7.大和三名庭園の一つ史跡・名勝・桃山時代「香藕園(こうぐうえん)」他は吉野山の竹林院と慈光院の庭園です。その1
當麻寺中之坊にて

8.同上 その2
當麻寺中之坊にて

9.国重要文化財の茶室「双塔庵」
當麻寺中之坊にて

10.中之坊での精進料理4名以上で1週間前までに申し込む。水曜日休み。之は@1,575円の精進弁当で大変美味であった
當麻寺中之坊にて

大和三名園の一つ「竹林院」は下記をクリックして見てください。
http://www.ayabun.net/kensyu/yosino2/yosino.html

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!その3.国宝・重文の山・當麻寺その3.見事な国宝東塔から中之坊へ

奈良県から大阪府河内(今の堺市)に続く、古代の竹之内街道(たけのうちかいどう)、ここを越えると大阪府太子町(聖徳太子廟がある)、そして右側が雄岳、左が雌岳(標高515メートル)」の麓に当麻寺ある。この寺は現代真言宗・浄土宗の両宗を奉ずる珍しい寺である。今回は過去2回にわたって見てきた部分に加えて、見事な国宝東塔を中心に高野山別格本山の当麻寺中之坊までを見てみます。次回は当麻寺の最終回で「導き観音(中将姫を手引きしたことで有名)」で有名な大和三名園の1つを持ち、又国の重要文化財の書院・茶室を見ます。尚、最期の所に竹之内街道から大阪府の太子町の「聖徳太子廟」をクリックして見れるようにしました。

1.西側から見る国宝の東塔
當麻寺にて

2.東側から見る見事な国宝の東塔
當麻寺にて

3.東塔の見事な桁(けた)や梁(はり)
當麻寺にて

4.東塔から西方浄土に向かって太陽が沈む二上山(ふたがみやま)、右が雄岳(標高515メートル)、左が雌岳
當麻寺にて

5.本堂右奥にある寺は浄土宗大本山京都知恩院の奥院です。南北朝時代戦乱を避け多くの寺宝がここに移されていました。今も知恩院の奥院として参拝者があります
當麻寺にて

6.高野山真言宗別格本山当麻寺中之坊 その1.(奥に国宝東塔が見える)
當麻寺にて

7.同上 その2.入口前の駒札
當麻寺にて

8.中之坊の土間にある秘薬「陀羅尼助」精製の釜
當麻寺にて

古代の竹之内街道を大阪府の太子町に入ると「聖徳太子廟」がある。見たい方は下記をクリックして見て下さい。
http://www.ayabun.net/kensyu/naniwanokuni.htm

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!その2.国宝・重文の山・當麻寺その2.中将姫とその信仰

當麻寺(たいまでら)の創建は612年に聖徳太子の教えに従って、異母弟の麻呂子親王が河内に万法院を建立した。その後、親王の夢に従って、681年当麻国見(たいまのくにみ)が、役行者(えんのぎょうじゃ)開山のこの地へ移したのが当麻寺です。金堂に本尊として弥勒菩薩像が祀られ」、役行者が百済(韓国のくだらのくに)より四天王を飛来させ、次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂(まんだらどう)が完成し、伽藍が整えられた。平安期には四十余坊、江戸期にも三十一坊があったと言うことです。天平時代,藤原家の娘・中将姫(ちゅじょひめ)は継母に妬まれ命を狙われ続けられました。そして1000巻の写経を成し遂げた16歳のある日、この二上山(ふたがみやま)に沈む夕陽に阿弥陀如来の姿を見た姫は、現世の浄土を求めて都を離れ、観音様に手を引かれるように当麻寺を訪れます。当時の住職・實雅法印(じつがほういん)に認められ中之坊にて尼僧にとなり、法如(ほうにょ)という名を授かりました。その後、あの日見た阿弥陀如来さまの居られる極楽浄土の光景を,五色の蓮(はす)の糸によって織り表しました。これが国宝・当麻曼荼羅(たいままんだら)です。その輝きに心を救われた法如(中将姫)は、人々に現世浄土の教え(この世で浄土を観じる教え)を説き続け、29歳の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたと云うことです。次回は東塔、二上山、中之坊へ行きます

1.中将姫(ちゅじょひめ)案内板
當麻寺にて

2.中将姫の銅像
當麻寺にて

3.中之坊にある中将姫の髪塚案内板
當麻寺にて

4.中之坊にある中将姫(法如)の髪塚
當麻寺にて

5.中将姫の周りの人々
當麻寺にて

6.見事な国宝の西塔(最近、奈良県立樫原考古学研究所の発掘により680年白鳳時代の創建と判明)
當麻寺にて

7.西塔近くの浄土宗の塔頭寺院「護念院」
當麻寺にて

8.国宝の東塔へ行く途中の「日本最古の石灯籠」案内板
當麻寺にて

9.国の重要文化財「日本最古の石灯籠」
當麻寺にて

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初夏の奈良の国宝・文化財を訪ねて!その1.国宝・重文の山・當麻寺その1

7月1日(木)大変蒸し暑い中、大和の国・葛城市の高野山真言宗別格本山の国宝と重文の山・當麻寺(たいまでら)を訪れた。案内は奈良県文化財保護委員の岡田清氏である。この当麻寺はもとは聖徳太子の異母弟の、麻呂子親王が(この麻呂子親王は京都府の大江山の鬼退治でも有名で、源頼光を率いて、京都府の宮津市まで追いかけて首を取ったと云われている。大江町の元伊勢神宮内宮には麻呂子親王お手植えの巨大な神木のスギの木がある。)が612年に河内国(かわちのくに、今の泉大津市など)につくられたという禅林寺を、681年に役行者(えんおぎょうじゃ)開創の当地に移したものと伝えられる。白鳳時代(650)から天平時代(730)にかけて金堂(国重文)、講堂(国重文)、国宝の東西両塔、本堂(国宝)などの伽藍が完成したと見られ、現在幾つかの塔頭寺院(たっちゅうじいん)その伽藍を守護する形をとっている。初めは南都六宗の一つ,三輪宗を奉じていたが,弘仁年間(810~24)に弘法大師空海が本堂に参籠して以来真言宗となる。本堂内に空海参籠の間がある。同じく役行者の間もある。その後、南北朝時代(1345頃)に浄土宗も入り、現在では真言・浄土両宗を奉ずる珍しいかたちをとっている。有名な藤原中将姫(ちゅしょうひめ)の信仰の話は次回で!

1.東大門(乗用車は東大門近くの有料駐車場に置けるが、大型バスの場合は大和高田バイパスの駐車場から両側の古い門前町を登って約10分です)
當麻寺にて

2.東大門の阿形(あぎょう)
當麻寺にて

3.東大門の吽形(うんぎょう)(阿吽の呼吸はここからきたのです)
當麻寺にて

4.今日の案内は奈良県文化財保護指導員の岡田清氏で「国宝・当麻寺曼荼羅(その原本は中将姫によって蓮糸で織られた根本曼荼羅で国宝)」の写真を使って説明された。
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩を中心に極楽浄土の有様が華麗豪華に描かれてい
當麻寺にて

5.日本最古の国宝の梵鐘
當麻寺にて

6.国重文の金堂(中には後で入って拝観したが、国宝の塑像(そぞう)の弥勒菩薩坐像や乾漆(かんしつ)造りの国重文の四天王立像、国重文の木造吉祥弁天立像が見られる
當麻寺にて

7.国宝の本堂「中には当麻曼荼羅厨子(国宝)」、役行者の間と像、弘法大師空海参籠の間もある
當麻寺にて

8.本堂入口
當麻寺にて

9.西塔(国宝)への途中には最近女性に人気のある関西花の寺第21番札所の塔頭寺院・西南院がある
當麻寺にて

10.西塔(国宝)が見える。この西塔は平安時代ものと考えられてきたが、最近奈良県立考古学研究所の調査では飛鳥時代(680)の創建の瓦が発掘された
當麻寺にて

丹波のカラス寺・関西花の寺第2番札所は京都府綾部市にあります。見たい方は下記をクリック願います!
http://ayabun.net/bunkazai/annai/ryogonji/ryogonji2.html

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初夏の京都洛北・洛中の寺社を訪ねて第6回(最終回)サツキ満開の智積院を見る

東山七条東に真言宗智山派大本山の智積院(ちしゃくいん)がある。豊臣秀吉が長男の鶴松(棄丸)の菩提を弔うため天正19年(1591)に建てた祥雲寺(しょううんじ)に始まり、紀州根来寺(ねごろじ)の僧・玄宥(げんゆう)が徳川家康から豊国社領を与えられ、祥雲寺と豊国社をあわせて、智積院を建立、慶長8年(1603)に寺基を確率した。豊臣家滅亡後は豊国神社を管轄下におき、300石が加増され、真言宗の学寮として大きな勢力を持った。大書院は昭和の始めの火災で、半焼し、ここにあった長谷川等伯一門の障壁画の大部分は収蔵庫(宝物館)に治められた。又庭は国指定名園として有名です。

1.金堂
サツキ満開の智積院にて

2.金堂前の左手がわに開山・玄宥(げんゆう)僧正の像
サツキ満開の智積院にて

3.金堂を正面から見る
サツキ満開の智積院にて

4.真言宗開祖・弘法大師像
サツキ満開の智積院にて

5.仏足石
サツキ満開の智積院にて

6.宝物館と国指定名勝庭園拝観料500円、宝物館には長谷川等伯一門の国宝の障壁画がある。下記は長谷川等伯の国宝「楓図」
サツキ満開の智積院にて

7.名勝庭園入口
サツキ満開の智積院にて

8.名勝庭園 その1
サツキ満開の智積院にて

9.名勝庭園 その2
サツキ満開の智積院にて

10.名勝庭園 その3
サツキ満開の智積院にて

11.見事な石と砂の内庭
サツキ満開の智積院にて

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初夏の京都・洛北・洛中の社寺を訪ねて!その5.栄西が開山の京都最古の禅寺・建仁寺

建仁寺(臨済宗建仁寺派大本山)は我国に臨済宗を伝えた明庵栄西(みょうあんえいさい)・開基は源頼家で、が創建した京都最初の禅寺で京都五山の筆頭寺院である。栄西没後寺勢は一時衰えたが、正嘉2年(1258)弁円(東福寺開山)が10世として入り、次いで蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が11世となり文永2年(1265)禅宗専一となり至徳3年(1386)五山の制で第3位となった。この建仁寺が特に有名になったのは落款も印章も無いが国宝の俵屋宗達の真作で晩年の最高傑作の「風神雷神図屏風」である。

1.乗用車であれば祗園花見小路(やっぱ舞妓さんが見えた)を通り駐車場へ行ける。
そして建仁寺への入口へ歩く。駐車料400円、拝観料500円
建仁寺にて

2.国重文の方丈への入口
建仁寺にて

3.国宝の俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」レプリカ
建仁寺にて

4.方丈(国重文・室町時代)から見る枯山水の「大雄苑庭園」
建仁寺にて

5.方丈から巨大な仏殿を見る
建仁寺にて

6.方丈から枯山水「大雄苑庭園」全体を見る
建仁寺にて

7.豊臣秀吉ゆかりの茶室「東陽坊」へ
建仁寺にて

8.豊臣秀吉ゆかりの茶室「東陽坊」
建仁寺にて

9.写経の間
建仁寺にて

10.勅使門(国重文・鎌倉時代)
建仁寺にて

11.枯山水の大雄苑と国重文の方丈を見る
建仁寺にて

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初夏の京都・洛北・洛中の社寺を訪ねて!その4.京都五山の上の南禅寺

  文化財研修記
前回、円光寺の記事で京都五山、鎌倉五山を説明したが、今日は「臨済宗七禅殺」とは?建仁寺(建仁寺派大本山、開山・栄西)東福寺(東福寺派大本山、開山・弁円、綾部安国寺は全国の安国寺の筆頭で足利尊氏公がここで生まれたことで有名です又分骨sれた足利尊氏公・母上杉清子・妻赤橋登子の三つのお墓がある。)南禅寺(南禅寺派大本山、開山・無関普門)大徳寺(大徳寺派大本山、開山・宗峰妙超)妙心寺(妙心寺派大本山、開山・関山慧玄)天竜寺(天竜寺派大本山、開山・夢窓疎石、由寺院・等持院で開山・夢窓疎石で足利尊氏の墓がある)相国寺(相国寺派大本山、開山・夢窓疎石で山外塔頭に金閣寺、銀閣寺がある。)この南禅寺は五山の別格寺院で元亀山天皇の離宮だったものを正応4年(1291)大明国師に与え、寺を創建した。石川五右衛門の名ゼリフ「絶景かな!絶景かな!」はこの強大な高さ22メートル三門の屋根の上でのことです。

1.湯豆腐で有名な南禅寺前の「順正」です!
南禅寺にて

2.森永湛堂老師の自筆の句の案内板
南禅寺にて

3.森永湛堂老師の自筆句碑
南禅寺にて

4.京都で唯一入って階段を上がって見れる「三門」高さ22メートル正に絶景です!
(国重文、江戸時代、5間3戸,入母屋造り、本瓦造り、典型的な禅宗用の山門、入場料500円
南禅寺にて

5.紅葉時の三門
南禅寺にて

6.三門から天授庵・東山のホテルを見る
南禅寺にて

7.国重文の勅使門
南禅寺にて

8.国宝大方丈の庭園
南禅寺にて

9.内庭
南禅寺にて

10.紅葉の南禅院庭園
南禅寺にて

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初夏の京都・洛北・洛中の社寺を訪ねて!その3.京都五山の上の南禅寺の縁寺・圓光寺

曼殊院から100メートルばか参道を降りてくると左手に、円光寺まで徒歩5分の看板があったので、歩くと何と15分もかかった。しかし、ここから更に15分歩くと「詩仙堂丈山寺」がある。詩仙堂はHP「綾部の文化財」で府県別文化財研修記の京都逍遥2日間で紹介した。この瑞巌山「圓光寺」開山は三要元吉(さんようげんきつ)禅師(禅寺、臨済宗「室町幕府は京都五山と鎌倉五山を決め、南禅寺は五山の上の特別格、第一天竜寺、第二相国寺(金閣寺、銀閣寺は相国寺の山外塔頭)第三建仁寺、第四東福寺、第五万寿寺(今は東福寺近くにあるが拝観できない)黄檗宗の万福寺では僧は禅師になる。開基は徳川家康公で慶長6年(1601で江戸に徳川幕府を開いた年)、徳川家康は国内数学の発展を図るため、下野(しもつけ)足利学校第9代学頭・三要元吉禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。元吉禅師は肥前で駿府圓光寺の開山でもある。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許可した。また孔子家語(こうしけご)・貞観政要(ちかんせよう)など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版、圓光寺版とも呼ばれた。当寺には、出版に使用された木活字(国重文)が現存しており、日本最古の木活字である。その後、圓光寺は相国寺に移り、更に寛文7年(1667)に現在の一乗寺小谷町に移転した。寺内には本尊千手観音像(伝、運慶作)や開山元吉禅師像(国重文)、竹林図屏風六曲(円山応挙作、国重文)もある。

1.圓光寺山門(拝観料400円)
圓光寺にて

2.山門をくぐり抜け、左手の石段の参道を上がると本堂前に出る
圓光寺にて

3.石の参道の奥に本堂が見える
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4.本堂内の寿老人図「渡辺始興筆、寛保二年(1742)」
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5.本堂庭園入口の巨大な百日紅(さるすべり)の木
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6.水琴窟(すいきんくつ)2本の竹筒に耳を当て聞くのだが、音色がそれぞれ違い過去聞いた水琴窟の中でも最高の部類に入る
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7.庭園 その1
7.庭園 その1

8.庭園 その2
7.庭園 その2

9.庭園 その3
庭園 その3

10.秋の紅葉は凄い!1枚のみ掲載
.秋の紅葉は凄い

11.木魚に居眠りする小僧さんが可愛くて思わずパチリ!
11.木魚に居眠りする小僧さん

12.裏山を50メートル登ると徳川家康公の墓がある
徳川家康公の墓

13.慶長4年(1599)家康公に与えられた木活字(国重文)で伏見版木活字又は
圓光寺木活字と呼ばれる桃山時代のもので現在,約5万2320個もある
木活字(国重文)

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初夏の京都・洛北・洛中の社寺を訪ねて!その2.曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)

前回の鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)から御幸橋(みゆきばし)を渡り、初夏のカエデの緑の参道を500メートルク位登っていくと「曼殊院(まんしゅいん)」門跡(もんぜき)天台宗」の正面の勅使門にいたる。高い門,長い白壁塀と石垣が寺格を示している。江戸幕府は門跡寺院は3通り区別して。皇室の二・三男等が住職となる寺は宮門跡、摂家が住職となる摂家門跡、そして準門跡がある。この曼殊院は宮門責跡(みやもんぜき)である。延暦年間(782~806)伝教大師・最澄が比叡山に一宇を設け,天慶年間(938~947)是算(ぜさん)国師が西塔北谷に移して東尾坊(とおのぼう)と号したのに始まり、天仁年間(1108~10平安時代後期)忠尋(ちゅうじん)座主が東尾坊を改め曼殊院と称した。現在の地に移ったのは明暦二年(1656)桂宮智仁親王の御二男(後水尾天皇の猶子=養子)良尚(りょうしょう)法親王(ほうしんのう)の時である。親王が出家され、天皇に認められると法親王となる。親王は当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の地に移し、造営に苦心された。国名勝書院庭園、桂離宮によく似た書院には国宝の「絹本著色不動明王」その体が黄色い事から黄不動と呼ばれ、高野山の赤不動、青蓮院の青不動と共に三不動と呼ばれている。その国宝の掛軸は平安時代後期の作で縦168.2センチ、横80.3センチに及ぶ大作が見れます。そのほか国宝の「古今和歌集(色紙・曼殊院本)も見れますが撮影は禁止です。

1.曼殊院門跡への登り参道、今は緑ですが、秋の紅葉は素晴らしいものです
曼殊院門跡1

2.6月の勅使門(江戸時代初期ののもので素晴らしい渦や唐草の彫刻が施されている)
曼殊院門跡2

3.紅葉時の勅使門
曼殊院門跡3

4.勅使門から北門への石垣・見事な苔の土手、高い白壁塀
曼殊院門跡4

5.北門の入り口(拝観料600円)
曼殊院門跡5

6.内庭
曼殊院門跡6

7.国名勝指定の書院庭園その1
曼殊院門跡

8.同上 その2
曼殊院門跡

9.同上 その3
曼殊院門跡

10.同上 その4
曼殊院門跡

11.同上 その5
曼殊院門跡

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初夏の京都・洛北・洛中の社寺を訪ねて!その1.鷺の森神社

鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)は修学院、山端一帯の氏神で、平安時代に神の使いである鷺が群集していた所から名図けられました。八坂神社と同じ素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀る1,100年余前に創建された古社です。応仁の乱で罹災後、比叡山麓から現在の修学院離宮の山林へ移り、離宮造営のため2度目の移転先、鷺の杜に社地を賜り現在の鷺森神社となります。

1.この「鷺の森神社」の紅葉は見事ですが、大型バスは入らず白川通りから15分徒歩で登ってきます。今回は乗用車でたった3台留めれる無料の駐車場に置くことが出来ました。近辺の案内図です
鷺の森神社にて

2.杉の御神木
鷺の森神社にて

3.手水舎
鷺の森神社にて

4.見事な拝殿
鷺の森神社にて

5.拝殿内
鷺の森神社にて

6.拝殿に向かって左側の摂社
鷺の森神社にて

7.拝殿に向かって右側の摂社
鷺の森神社にて

8.拝殿から舞殿を見る
鷺の森神社にて

9.神社から登り参道を見る
鷺の森神社にて

10.秋の紅葉の参道(隠れた紅葉の名所です)
鷺の森神社にて

11.参道途中にある京都市指定の古木山サクラの案内板
鷺の森神社にて

12.巨大な京都市指定の山サクラ
鷺の森神社にて

13.御幸橋の案内板
鷺の森神社にて

14.御幸橋です。この橋を渡って、皇室の門跡(もんぜき)寺院の曼殊院(まんしゅいん)へ向かって徒歩で登っていきます。次回はこの曼殊院です
鷺の森神社にて

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平城遷都1300年祭を見る。その5.平城京跡その3

延暦3年(784)に桓武天皇が山背国(やましろのくに)長岡京市に遷都するまで7代70年余にわたり都として栄えた平城京は、東西5.9キロメートル、南北約4.8キロメートルに及ぶ大都城で,唐の長安を模し,奈良盆地を南北に貫通する古代の三本の幹線道路を利用して都城の計画がなされており、うち下ッ道(しもつみち)をメインストリートの朱雀大路「(すじゃくおおじ)二条大路南の部分は部分は国史跡」とした。平城宮跡(国特別史跡)天皇は北の大極殿の玉座から南を見て、朱雀大路の左手側を左京、右手側を右京と呼ばれた。更に東の部分に外京が設けられた。京内は東西に9条、南北には左右に各4坊の大路が設けられ碁盤の目のように区画された。平城宮は東西1.3キロメートル、南北約1キロメートルである。その様子は今の京都市(平安京)がよりわかりやすい。この平城京の南はずーと開けており、そこにはこの平城京よりも大きな藤原京跡がある。大和三山の1つ畝傍山(うねびやま)の南側である。小生トレッキングシューズで10ある年前畝傍山(標高198.1メートル)に登り又南側にある藤原宮跡を見て廻ったが田圃のあぜ道で滑って田圃に足を突っ込み、大変酷い思いをした記憶がある。今回を以って平城遷都1300年祭り終わりです。ありがとうございました。

平城京跡ガイドツァーッマップ
1.平城京跡ガイドツァーッマップ(1時間30分コース)
第一次朝堂院跡を見る
2.マップ上のNO.3.第一次朝堂院跡を見る。(朝堂院とは役人が整列する場所であり、執務のほか、様々な儀式に使われていました。奈良時代にはここに4つの建物がありました。)
朝堂院跡へ
3.同上NO3朝堂院跡へ
朝堂院跡
4.同上・朝堂院跡
刀筆の史
5.当時の文官はので木簡に書き、削って再利用さましたで「刀筆の史(とうひつのり)」と呼ばれていました
第一次大極殿
6.巨大な「第一次大極殿」です。ここでは天皇が執務や儀式を行った場所です。2001年から工事に着手し、710年の遷都から丁度1300年後の2010年に復元が完成しました
南門と南門広場
7.南門と南門広場(平城遷都1300年祭に大極殿の南門前に整備された広場です)
南の朱雀門方面
8.南の朱雀門方面を見る、それからはるか遠方に藤原京がある
西は生駒連峰
9.西は生駒連峰
第一次大極殿の裏側からの入口
10.第一次大極殿の裏側からの入口
大極殿内の玉座
11.大極殿内の玉座(天子は南面す!天子=天皇の左手側が左京、右手側が右京となります)
巨大なし尾(しび)
12.巨大なし尾(しび)室町時代の城には「鯱(しゃち)例は名古屋城の金の鯱」
屋根の軒瓦
13.屋根の軒瓦
大極殿に使われた柱の桐の切り口
14.大極殿に使われた直径70センチメートルの柱の桐の切り口(現在もうこのような巨大な柱は日本では入手不可のである)

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平城遷都1300年祭を見る。その4.平城京跡その2

延暦3年(784)に桓武天皇が山背国(やましろのくに)長岡京市に遷都するまで7代70年余にわたり都として栄えた平城京は、東西5.9キロメートル、南北約4.8キロメートルに及ぶ大都城で,唐の長安を模し,奈良盆地を南北に貫通する古代の三本の幹線道路を利用して都城の計画がなされており、うち下ッ道(しもつみち)をメインストリートの朱雀大路「(すじゃくおおじ)二条大路南の部分は部分は国史跡」とした。平城宮跡(国特別史跡)天皇は北の大極殿の玉座から南を見て、朱雀大路の左手側を左京、右手側を右京と呼ばれた。更に東の部分に外京が設けられた。京内は東西に9条、南北には左右に各4坊の大路が設けられ碁盤の目のように区画された。平城宮は東西1.3キロメートル、南北約1キロメートルである。その様子は今の京都市(平安京)がよりわかりやすい。この平城京の南はずーと開けており、そこにはこの平城京よりも大きな藤原京跡がある。大和三山の1つ畝傍山(うねびやま)の南側である。

平城宮跡ツアーイラストマップ
1.平城宮跡ツアーイラストマップ(1時間30分コースでNO.1からNO。5明日イを廻ってみて廻るコースに参加した。
遣唐使船復元展示
2.遣唐使船復元展示(長さ30メートル、幅10メートル、帆柱は15メートルであった。正使はもっとも揺れの少ない最後部の建物の中に居住した)
遣唐使船の後部(正使・副使の建物)
3.遣唐使船の後部(船上の正使・副使の建物)
朱雀門と現「イトーヨーカ堂」で「長屋王邸宅跡」
4.朱雀門と左手奥の白い建物が現「イトーヨーカ堂」でここが「長屋王邸宅跡」です
朱雀門横の塀
5.朱雀門横のこのような塀が平城京の周りを囲んでいた
朱雀門
6.朱雀門(すじゃくもん)は平城宮の南側に位置し、四神(しじん)と呼ばれる、天の四方を守る神のうち、南を守る神、朱雀に由来している。屋根の両側には黄金の巨大な「し尾(しび)」が見える。柱は直径75センチメートルのものが18本でこの門は維持されてきた。2010年に復元が完成した大極殿の柱はもはやこのような巨木がなく直径70センメートルです
朱雀門から朱雀大路(国史跡)を見る
7.朱雀門から朱雀大路幅75メートル(国史跡)を見る。その南の奥に平城京入り口の門「羅城門(らじょうもん)」があった
第一次大極殿
8.近鉄大阪奈良線を越えて「第一次大極殿(だいいちじだいごくでん)へ歩く!

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平城遷都1300年祭を見る。その3.平城京跡その1

奈良の平城京は第43代元明天皇が和銅3年(AD710)に藤原京より遷都したことに始まる。同時期に興福寺がこの平城京に移った。霊亀2年(AD716)元興寺がこの地に移った。延暦3年(AD784)に第50代桓武天皇が長岡京に遷都し、更に延暦13年(AD794)に桓武天皇は平安京に遷都した。ということでこの平城京は実際は74年間の短い都であったが、大同4年(809)平城上皇がこの平城京に戻ってきているので80余年間が実質の都であった。平城京跡の見学は貸切バスも駐車場事前予約で払いの上、大混雑であった。この日と特に熱く麦わら帽子の田所会長が一番元気であった。次回は皆さんと一緒に平城宮を歩いて見て廻りましょう!

車窓から朱雀門を見る
1.バスの車窓から朱雀門を見る
平城京跡エントランス広場
2.平城京跡エントランス広場は大混雑
公式記念品販売所
3.公式記念品販売所
奈良のお土産販売所
4.大混雑の奈良のお土産販売所
大混雑のフードコート
5.大混雑のフードコート
総合案内所近辺
6.熱い熱いね!総合案内所近辺
ツアーガイドの岸田さんの案内
7.御所市在住のツアーガイドの岸田さんの案内が始まる!我々は白(玄武)のグループ23名です
長屋王邸宅跡を示す岸田さん
8.広大な平城京と平城宮のすぐそばにある長屋王邸宅跡を示す岸田さん
長屋王邸宅跡
9.長屋王邸宅跡「1980年代の後半、平城宮の南東隣接地の左京三条二坊一・二・七・八坪にあたる地域に「そごう」デパート(現在はイトーヨーカ堂)の建設に伴う発掘で1988年(昭和63年)4町(2万5千坪)の邸宅跡と10万点にもの木簡(もっかん)が発見され、その木簡には「長屋皇宮一石ーーー」「長屋親王宮鮑大贅十編」などで長屋王の邸宅と決定された。その木簡は各地にからの祖庸調の様子が克明に判明した。わが、綾部市の現高津町からも「鮎の干物」が送られた木簡も出てきた。長屋王は天武天皇の孫、高市(たけち)皇子の第一子であり、将来の天皇候補でもあったが、藤原一族の陰謀で謀反の罪に問われ自殺した。その墓は現在、生駒郡平群町(いこまぐんへぐりっちょう)にある。前方後円墳でその中に石碑が建てられている
平城宮イラストマップ
10.平城宮イラストマップ(次回は皆様と一緒に1時間30分歩いて見ましょう)


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平城遷都1300年祭を見る。その2.西ノ京・天平文化を今に伝える薬師寺・唐招提寺近辺

今回のk研修旅行の目的地は「平城遷都1300年・平城宮」の復興された「朱雀門」道幅75メートルの朱雀大路、「第一次朝堂跡」「第一次大極殿」(中国では太極殿と書いている)です。其れを見学するガイドツアーが午後2時15分スタートなので、平城京の西ノ外側にある所謂「西ノ京」を散策した。そこには天平文化を今に伝える西大寺、唐招提寺、薬師寺といった大寺院が佇んでいる。次回はいよいよ平城宮へ行きます。

薬師寺の西塔
1.六条柳町から近鉄線を挟んで世界文化遺産登録「薬師寺の西塔」が見える
現在の薬師寺北口
2.現在の薬師寺北口(元の北門は之よりずっと北の唐招提寺近くにあった。)
現在の北口「興楽門」
3.現在の北口「興楽門」
豪商・豪農の長屋門付きの住宅
4.薬師寺北門から唐招提寺方面へ歩いていくと左手に元の豪商・豪農の長屋門付きの住宅がある。その一
同 上 その二
5.同 上 その二
昼食の店「大納言」
6.昼食の店「大納言」(ここも元は薬師寺の敷地であった)
熱々のてんぷら定食
7.熱々のてんぷら定食で大満足
世界文化遺産登録「唐招提寺」の南大門
8.世界文化遺産登録「唐招提寺」の南大門
唐招提寺の国宝・金堂を見る
9.南大門から唐招提寺の国宝・金堂を見る

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平城遷都1300年祭を見る。その1.西ノ京・大和の匠・がんこ一徹長屋と墨の資料館

今年は平城京が遷都1300年に当たり、6月10日(木)綾部市文化協会主催の「平城遷都1300年祭」の研修旅行一行23名に参加した。貸切バスは幅が大型バス並のハイデッカー中型27名乗りサロンカーでバス旅は快適であった。ただ真夏のように良い天候で、田所会長は麦藁帽子を持参でした。其れが正解で、小生の青のトレッキングの帽子は熱くなり、帽子無しで見学した。綾部市発午前8時で京都縦貫道から長岡京市を通り、第二京阪道、京奈和道を通り、最初は西ノ京を訪れた。奈良の特徴のある「大和の匠・がんこ一徹長屋と墨の資料館」です。我々のバスは大型バスと幅が同じなので途中から徒歩で行った。

西ノ京イラストマップ
1.西ノ京イラストマップ
近鉄「西の京駅」
2.近鉄「西の京駅」
がんこ一徹長屋と墨の資料館入口
3.大和の匠・がんこ一徹長屋と墨の資料館入口(入館料1人500円)見る値打ちはありました
博文堂
4.博文堂(毛筆の専門店)
一刀彫
5.一刀彫
一刀彫その2
6.一刀彫その2.(他に、漆工芸、赤膚焼、表具、茶筅の専門店があります)
墨の資料館入口
7.墨の資料館入口
「墨の歴史」古来より文房四宝の1つとして重宝がられてきた墨。現在のようにパソコンのワードもボールペンや鉛筆も無かった時代。筆記用具といえば筆と墨しかなかった。その墨で書かれた木簡(もっかん)、竹簡(ちっかん)をはじめ、古文書、古書画などは、年月を経て今なを墨色を保ち、歴史や文化を今に伝えてくれます。墨は今から1300年の昔,高麗の僧・雲徴によって伝えられたと「日本書記」(推古天皇18年・AD610)にあります。墨のルーツを辿れば、中国の漢の時代に固形墨の前身・墨丸が造られていたと資料に残っていますが、さらにその前の周の時代(BC1050~770)に墨らしきものが実存したといわれ、又、後漢時代に紙が発明されると墨丸では書けず、球状の墨丸からすり易い棒状の現在の墨の基礎が出来たと言われています。
墨の形造り
8.墨の形造り
墨造りの行程
9.墨造りの行程
多種多様な墨その1
10.多種多様な墨その1
多種多様な墨その2
11.多種多様な墨その2

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明日香の国宝と文化財を訪ねて5 橿原考古学研究所附属博物館

今日の「明日香の国宝と文化財を訪ねて」の綾部の文化財を守る会の研修旅行の最後は、「橿原考古学研究所附属博物館」である。

世界的にも有名な博物館のあらまし
この博物館は、橿原考古学研究所が昭和十三年(1938)以来行なってきた発掘調査の出土資料を中心に展示されています。展示は発掘調査で出土した実物資料の常設館「大和の考古学」は日本の考古学基準資料をもとに「目で見る日本の歴史」となっています

橿原考古学研究所附属博物館にて
沢山の見学者が詰めかけごった返す博物館案内所。92名が4班に別れ博物館のガイドに従い研修
橿原考古学研究所附属博物館にて
2号車第2班は一般展示から見学
第1展示室:二上山麓遺跡群 ナイフ形石器、桐山和田遺跡 隆起線文土器など
橿原考古学研究所附属博物館にて
第2展示室:葛本弁天塚古墳 特殊器台、下地山古墳 内行花文鏡など
橿原考古学研究所附属博物館にて
石見遺跡 人物埴輪頭部
橿原考古学研究所附属博物館にて
藤ノ木古墳 金銅製冠(国宝)など
橿原考古学研究所附属博物館にて
埴輪など
橿原考古学研究所附属博物館にて
甲冑 刀剣など
橿原考古学研究所附属博物館にて
見学する一行
橿原考古学研究所附属博物館にて
第3展示室:牽牛子塚古墳 七宝飾金具(重文)、御坊山3号墳 三彩硯とガラス管(重文)など見学
橿原考古学研究所附属博物館にて
石棺など
橿原考古学研究所附属博物館にて
刀剣や土器など

橿原考古学研究所附属博物館にて
今回は「平城遷都千三百年記念春季特別展」で唐王朝の皇帝と皇族の陵墓にスポットを当て、最新の考古学的成果を用いた、世界最高権力者が眠る唐皇帝陵の実態を見学した。有料特別展は写真撮影不可。

1週間後の10日に綾部文化協会主催の「平城遷都1300年」の研修旅行に参加したが、遣唐使の船が復元されていた。この大唐皇帝陵展にも詳しく遣唐使の往来について説明されており、直後の見学だったので大変役立つ知識をえられた
橿原考古学研究所附属博物館にて
館内案内図
橿原考古学研究所附属博物館にて
外へ出て巨大な石を乗せた修羅石を見る。石舞台古墳の巨石もこんな仕掛けで運んだのだろう。舟形の下に丸太のコロを並べたとしても大変な重量だ。数十人の曳き手が重労働を行ったのだろう
橿原考古学研究所附属博物館にて
修羅石説明

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飛鳥の国宝と文化財を訪ねて4 岡寺

綾部の文化財を守る会の研修旅行、「石舞台古墳」見学のあとは再び2台のバスに乗り、西国三十三所第七番札所・東光山龍蓋寺:真言宗・岡寺にやってきた。
先ず朱塗りの「仁王門」(国重文)の石段に並び号車毎に記念写真を撮影する

西国札所と岡寺(龍蓋寺)
 観音様の御名を呼べば観音様は三十三の化身により衆生を救済されるとの信仰のもとに、西国三十三所観音霊場巡りが盛んになってから約一千年の歴史がある。
 岡寺はその前から観音霊場として栄え、創建以来「熱祷千三百有余年」常に大衆の幸せを願ってきた。
 岡寺の石の鳥居を通リ坂道を五百メートルばかり、ゆっくり登ると朱塗りの「仁王門」(国重文)石段を左側へ登ると広い境内にでる。此処には南面した本堂・開山堂・書院・本坊・楼門・観音堂などが不規則に建つ

岡寺にて
重文・仁王門
岡寺にて
仁王門を入ると4班に分かれた92名の会員がボランティア・ガイドさんの説明を聴講中で混んでいた
岡寺にて
本堂へ登る石段手前の地蔵菩薩(室町時代)
岡寺にて
(熱祷千三百年)創建の伝説と義淵僧正
天智天皇二年(663草草)草壁皇子のお住みになっていた岡の宮を仏教道場に改め、当時の仏教の指導者であった義淵僧正に下賜され、創建1300余年の歴史を持っている。このため本尊や義淵僧正像など国宝、重文七件のほか多数の宝物がある
岡寺にて
義淵僧正は奈良東大寺の基を開いた良弁僧正や菩薩と仰がれた行基、その他奈良時代の仏教を興隆した多くの先駆者の師として知られている。また「扶桑略記」(平安時代の史書)によると、義淵僧正の父母は子宝を観音に祈った。その結果生まれたのが義淵。この有り難い話を聞かれた天智天皇が岡の宮で義淵を草壁皇子と共にお育てになった
岡寺にて
本尊・如意輪観音像(重文)は我が国最大の塑像で、如意輪観音像としては最古の作品。インド、中国、日本3国の土で弘法大師が造られた尊像に向かい手を合わす。

注)塑像胎内に一本の心木があり銅線で芯を造り、麻布や雲母の入った仕上げ土で固めて創ったものです
岡寺にて
納経所も会員で混んでいる
岡寺にて
厄除け信仰と龍蓋寺:義淵僧正は優れた法力の持主でもあった。その頃、この寺の近くに農地を荒らす悪龍がいた。義淵僧正はその悪龍を法力によって小池に封じ込め、大石で蓋をした。この伝説が岡寺の正式名称「龍蓋寺」の原点となっており、本堂前に「龍蓋池」が今もある。

 こうした伝説は「災いを取り除く」信仰に発展、密教の普及と共に鎌倉時代には「二月(現在三月)初午の日に必ず岡寺に参詣した」という「水鏡」の記録もあるほどで、それまでの観音信仰に厄除け信仰が加わり、日本最初の厄除け霊場が形成された
岡寺にて
仏足石など見ながら奥の院に向かって石段を上り詰めると稲荷社があった
岡寺にて
右手山際に奥の院・石窟
岡寺にて
下りてくると十三重石塔が立つ
岡寺にて
「岡寺の三重宝塔」:文明四年(1422)台風により倒壊し、実に五百余年ぶりに昭和61年秋、弘法大師記念事業として再建されたものです。ここから明日香の広がりを観望
岡寺にて
大師堂よこから石段を下り仁王門に戻る
岡寺にて
史跡:岡寺跡 創建当初の伽藍は仁王門の西方、ここ治田神社境内地にあったと考えられている。・・

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