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図書紹介

上林七里野  図書紹介

「上林川を美しくする会大会に参加」で紹介のあった「上林七里野」執筆・編集:四方英生氏 写真・校正:引原英男氏」を綾部市前市長:四方八洲男氏よりいただいたので紹介する。

 21世紀は自然への回帰、ふるさと再発見の世紀でもある。寺社、城壁にまつわる歴史と波多野鶴吉翁をはじめとする七里野の人々。霧と雪と深い山、そしてゆるやかな上林川が育んだ物語の数々。四方英生先生の愛郷の労作「上林七里野」を手にして上林街道を歩きたい。そんな衝動に駆られるのは私だけだろうか。 四方八洲男(前綾部市長)

上林七里野  図書紹介
表紙カバー

上林七里野  図書紹介
目次 寺社の栄枯盛衰・・・

上林七里野  図書紹介
綾部市最古の河牟奈備神社

図書のお求めは、綾部観光センター(八津合町縄手1)0773-54-0002 にお申し込みください。

関連記事;
綾部市でもっとも古い歴史の式内社・河牟奈備神社創建1300年祭が実施された!は、ここをクリックしてご覧ください 四方八洲男綾部市長(当時)の来賓写真もあります

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図書紹介

平城京遷都1300年祭に関して石田則明氏の奈良時代の第4冊目の著書「奈良時代にはこんな事が」

去る6月10日綾部市文化協会主催の「平城京を見る研修旅行」23名参加でハイデッカーマイクロバス(大型バスと同じ幅)で日帰りで見学・研修に行ってきた。当日は大変良すぎるあたかも夏の如く灼熱の日であった。田所会長は麦わら帽子持参で、是が正解。小生は通常のトレッキング用の帽子で熱くって着ていられなかった。処で、小生は平城京は過去3回、藤原京は1回徒歩で1人で行っているので事前勉強は無しでぶっつけ本番の参加であった。綾部出身の小生の2年先輩の石田明美さんのご主人が奈良時代に関して、4冊目の著書「奈良時代にはこんな事が」1,890円(税込み)を(株)栄光出版社で出して居られ、常時利用の綾高前の「スバル書房DVレンタル」で注文して於いたが間に合わなかった。17日に漸く届いたので、4冊平行読みで漸く読み終わった。誠に素晴らしく一言主大神(ひとことぬしおおかみ)の言葉で74年間の奈良時代について正史「続日本紀」(しょくにっぽんき)を元に順を追って明瞭に解説・説明の本であった。尚この本は山崎善也市長が綾部市図書館に1冊寄贈されていると思いますので借りて読んで下さい。尚「綾部の文化財を守る会」会員諸氏は事務局の四方へご一報頂ければお貸しします。平城遷都1300年祭は4月24日から11月7日まで継続されるので是から見学に行かれる方、又は行かれた方にも是非この本を読んで頂きたくここに、掲載します!尚小生のよく利用している本を2冊紹介します。

1・石田則明氏の奈良時代に関しての第4冊目の著書「奈良時代にはこんな事が」
奈良時代にはこんな事が  図書紹介

2.新聞の書評
奈良時代にはこんな事が  図書紹介

3.石田則明氏略歴
1966早稲田大学院 理工学研究科 修士過程終了
1966日本電信電話公社(当時)
1991(株)日立製作所
1999早稲田大学院 国際情報通信科 教授
2003無線システム研究所代表 工学博士
「第44第元正女帝は保養によく「養老の滝」へ行きました。改元して「養老年」を詔しています。養老の滝は下記をクリックして見て下さい!
養老の滝(元正女帝行幸地)
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/313.html
平城京遷都1300年祭は下記をクリックして見て下さい!
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/854.html
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/855.html
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/856.html

「歴代天皇100話」監修:国学院大学教授 林睦朗、出版社(株)立風書房
奈良時代にはこんな事が  図書紹介

「京都の禅寺散歩」元花園大学文学部教授(綾部市出身)竹貫元勝(小生の綾部高校の恩師の竹貫純一先生の甥)
奈良時代にはこんな事が  図書紹介

綾部の文化財を応援していただける方は下記をクリック願います

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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近畿自然歩道 弥仙山

綾部市の聖山、丹波富士と呼ばれることもある弥仙山(664m)のパンフレットをもらった。

近畿自然歩道 弥仙山
近畿自然歩道・・採らずに撮ろう弥仙山・・山菜の宝庫、神仙の山
弥仙山三社大祭・山菜まつりの様子は下記をクリックください。
 http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/825.html

近畿自然歩道 弥仙山
弥仙山の見どころ: 於与岐八幡宮、栖龍寺、水分神社、於成神社、金峰神社、弥仙水、修練の滝、大岩
伝承:水分神社子授け伝説、改心の道の由来
主な山野草:アケビの花、エンレイソウ、ラショウモンカズラ、エイザンスミレ、イチリンソウ、キンラン、シャガ、ササユリ、ハナイカダ、センブリ、リンドウ、フユイチゴ
地方の方から一言:野瀬井石夫、吉崎孝典氏

テーマ : 博物学・自然・生き物
ジャンル : 学問・文化・芸術

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お不動さんは帰って来ない 楞厳寺盗難仏画(重要文化財)

楞厳寺の日限地蔵尊大祭の取材にいくと参詣者受付で盗難にあいドイツで見つかった重要文化財の「不動明王三童子像」の返還を願って署名運動が行われていた。資料をいただいたので下記に要約を記載する。

毎日新聞記事 お不動さんは帰って来ない
1998年(平成10年)8月12日(水)毎日新聞記事
ひと・社会・ニュースがわかる
深層 お不動さんは帰って来ない
盗難重文と韓国国宝の酷似問題
1995年に指定された韓国の国宝『大般若経』3巻が、長崎県・壱岐の寺から盗まれた日本の重要文化財と酷似している問題で、文化庁は外務省を通じ、同一物かどうかを確かめるための協力を韓国政府に要請している。盗難美術品が海外に流出した可能性があるとして、日本政府が他国に協力を求めることは極めて異例だが、実は類似のケースが過去に一度だけある。そのてん末を追った。(磯崎由美 写真も)

 過去にもあった 類似のケース
「入間の手で何ともならんのなら、お不動さんに「帰りたい」とでも言ってもらうしかないでしょうなあ」

京都府綾部市の高野山真言宗・楞厳寺。ヒグラシの鳴き声が染み入る庫裏で、為広哲堂住職(65)は、1枚の仏画の写真に目を落とした。
1911年から12年にかけて寺に保管されていた重要文化財(当時の国宝)の仏画「不動明王三童子像」が何者かに盗まれた。当時の住職は仏画を箱に納めて本尊のわきに置き、毎日拝んでいた。ある時、箱を開けると中身は空っぽ。盗難時期が絞り込めないこともあって捜査は難航、事件は迷宮入りとなった。

それから80年余りたった94年5月のある夜。為広住職は書庫の整理中、ドイツのケルン東洋美術館所蔵作品集を見ているうち、偶然開いたページの写真に目がくぎ付けになった。盗まれた仏画を複製した写真を本のわきに並べた。紙が折れて絵の具がはげた場所まで同じだった。

 住職からの通報を受け、文化庁は確認作業に乗り出した。ケルン市側に協力を求め、職員が現地で調査。仏画は盗品と同一だとわかった。だが記録をたどると、仏画を同美術館に寄贈したコレクターが京都の古美術店で購入したものだった。

 結局、①盗まれて80年以上もたっており、日本の法律に照らしても所有権はケルン市にある②寄贈者は盗品と知らず購入した善意の第三者・・・などの理由から「返還は無理」との結論になった。ドイツの法律でもケルン市側が返す義務はない。

 それでも「相手の善意によって将来戻ってくる可能性はゼロではない」と重要文化財の指定は解除されていない。

 結局「不動明王三童子像」は二つの国の法律で保護されるいう奇妙な事態に陥った。中略

 昨年ケルン東洋美術館は日本で所蔵作品展を開いたが「不動明王三童子像」は出品されなかった。中略

 為広住職のもとに最近、現地在住の檀家を通じ、ケルン東洋美術館の館長から手紙が届いた。「仏画は現在オランダで補修中。今年中にはケルンに戻るので、ぜひ住職に見に来てほしい」と書かれていた。

 住職は「無事に立派な美術館に保管されていてよかった」と感謝する一方、「仏画は単なる美術品ではなく、多くの信者が心のよりどころとしてきたもの。いつか戻る日が来るかもしれない」とかすかな期待をつないでいる。

京都の仏画 独の美術館に 綾部・楞厳寺
 80年前被害 「返還は無理」

複製の絵を手に、文化財返還への思いを語る
「仏画はケルンに預けてあるつもり」複製の絵を手に、文化財返還への思いを語る
為広哲堂住職=京都府綾部市の楞厳寺で

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グラフ綾部

グラフ綾部
GRAPH・AYABE・2010 綾部たて・よこ グラフ綾部
綾部市観光協会(観光写真コンテスト入賞作品)(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター
 写真提供:梅原 隆・佐藤徹郎氏 A4版36ページ
グラフ綾部目次
目次
「綾部たて・よこ」ありふれた景色がとっておきの一枚になります。・・・
 特集 由良川 上林川 八田川 犀川
 あやべ歴史回廊
 平和への祈り
 笑顔に出会う都市 インタビュー
 あやべ彩々
 綾部市全図

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歴史街道浪漫・横峠

12月6日(日)催された歴史街道・横峠越えで資料として素晴らしいパンフレットをいただいたので紹介します。出版:山家今昔写真の会、〒629-1263綾部市鷹栖町後田32山家公民館内 製作:アイデア工房ぱらだいすトマト(奥平晃己・大西順子)執筆:川端二三三郎氏
歴史街道浪漫 横峠
歴史街道浪漫 横峠
田辺の殿様も私たちの祖父母も通った
田辺の殿様も私たちの祖父母も通った
田辺藩の京街道
田辺藩の京街道     
 横峠は郡内の山家郷と八田郷をつなぐ連絡路としては古くから利用されていたが、広く京都と丹後田辺を最短距離で結ぶ要地として注目されるようになったのは近世初頭のことである。
 天正10年(1582)本能寺の変直後、豊臣秀吉は明智光秀を打ち破って丹波国を蔵入り地とし、子飼いの谷衛友を山家に配置して丹波・丹後国境地帯の警備を委ね、前年から丹後制圧に腐心していた細川幽斎・忠興父子を支えさせた。関ケ原の戦い後、田辺の領主は京極氏(十二万石)・牧野氏(三万五千石)と交替したが、細川氏以来の城下町としての位置には変わりがない。京街道沿いの鳥居野では細川氏が京街道のつけ替えを行ったという伝承がある。梅迫が内谷の出村から町場に急成長をとげたのも、梅迫谷氏陣屋の設置とともに京街道の発達によるところが大きい。

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綾部市遺跡地図

綾部市遺跡地図
綾部市遺跡地図
綾部市遺跡地図 発行:綾部市教育委員会 平成10年3月31日

遺跡地図と遺跡の保護について
 はじめに
 本書は、綾部市内における遺跡の分布状況及びその概要を示したものである。したがって、この遺跡地図は、それ自体が本市にとって歴史的基礎資料であるとともに、あわせて遺跡の所在地を明らかにすることによってその周知徹底をはかり、その保護と活用を進めるためのものである。
 1.文化財保護法と遺跡の保護
 我国の文化財保護制度の基本となる法律は、文化財保護法(昭和25年施行、以下「法」という)である。本書にいう遺跡とは、法において埋蔵文化財と呼ばれ「土地に埋蔵されている文化財(法第57条第1項)」と規定されているもののことである。例えば、貝塚・古墳・集落跡・城跡・寺院跡等の他、遺物散布地なども埋蔵文化財であるが、必ずしも地下に埋没しているものばかりとは限らない。遺構であれ遺物であれ、また地中であれ地上であれ、それらが存する土地と密接に関連するものであるから、「土地に埋蔵されている文化財」なのである。
 ①埋蔵文化財は土地に包蔵されており、その保護は当然土地を対象とするが、一方、上地は、文化財の有無に関係なく私有財産としてあるいは公共的利益として様々な用途に供される。したがって、埋蔵文化財の保護または活用を図るためには、土木工事等上地の開発行為といかに円滑に調整しうるかにかかっている。(以下略 )
綾部市遺跡地図目次

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綾部西国観音霊場めぐりパンフレット

豊かな自然と伝統・文化の街・綾部市に、古くから残る名所と33ヶ所、番外6ヶ所の観音霊場がございます。より多くの方が参拝、巡礼していただきたくご案内いたします。
綾部西国観音霊場めぐりパンフレット
綾部西国観音霊場会
お問い合わせは、綾部市観光協会 京都府綾部市駅前通東石ケ坪11-4 電話:9773-42-9550
綾部西国観音霊場1
綾部西国観音霊場 特色ある霊場を巡って観音様とご縁を結んでいただき、今を生きていく心の支えとして、ある時は現世利益を祈り、或いは後生安楽を願って頂きたいと存じます。
綾部西国観音霊場2

綾部の文化財を守る会の「綾部西国観音霊場一覧」取材記事もご覧ください
http://ayabun.net/gaiyo/saigoku.html

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綾部用水ー綾部井堰の変せんといまー

綾部用水ー綾部井堰の変せんといまー
企画/発行 21世紀農業農村整備企画会議中丹ブロック
(窓口 京都府中丹土地改良事務所 Tel 0773-42-3265)平成15(2003)年3月発行
A4版25ページのパンフレット冊子

先に写真を紹介した並松河畔の「近藤勝由翁頌徳碑」について、碑文の解説に関わる参考資料の提供を文化財を守る会の四方續夫事務局長に依頼したところ、この書籍を届けていただいた。

近藤勝由の事績
 近藤勝由氏は文政10(1827)年、綾部:藩に生まれる。性剛直にして苟くも意思を枉ざるの風で、土木技術に関してはその最も長所にして、経済の途にも通じ、嘉永元年綾部藩代官見習いとなり、土木を兼ね司り部内の土木につくせしも尠からずして、なかんづく天田堰を綾部堰に合併したる功績の如きは其の最も顕著なるものである。
 綾部、天田両堰は、共に由良川の流域にあって灌漑反別一は130余町歩、一は170町歩に渉る大堰にして、しかるに往々洪水に際しては堰を破壊され、其復旧維持のため村民の苦しむこと多大であったところ慶応2年8月大洪水あり、天田堰ついに流出し、その復築容易にならず、村民の憂苦困憊非常なるものであった。この時氏は天田堰を廃し綾部堰に合併せんとし、藩主に献策して嘉納せられた。 然れども当時衆皆その成功を疑ひ異論百出するに至たが、氏之に動せず日夜鋭意計画し、時の大庄屋羽室嘉右衛門氏等と相謀り、2月28日起工、部民を使役、日夜これを督励して延裏より大島村に至る長さ8町余、草莱を拓き岩石を砕き、苦心惨憺この難工事を短日にして天田堰なる井溝に連続、遂に目的を達した、維時3月8日なり、ここに綾部堰の一大水路を以て延長2里余に亘る元両堰の区域全部に潅漑せしのみならず、将来の維持費を減じて経費多大の利益を得せしめたものである。
 尚又明治17年8月大洪水があり、由良川筋に築造せる井堰及樋閘等破壊され、衆議之れが復旧工事の施行を氏に嘱託するや、是また3旬の短日にて竣成された。
 而も其工事の困難なりし事、前日の比にあらざるという、ここに於て明治25年組合員等氏の功績を不朽に伝んとし、元何鹿郡長宮崎清風氏に撰文を嘱し、之れを碑石に刻み綾部堰の西岸に建立せり。
近藤勝由翁
4.綾部井堰の恩人 -近藤勝由―
 綾部井堰といえば、近藤勝由を連想するほど、綾部井堰の父というべき人物である。
 勝由が綾部きっての井堰通となったのは、生来土木が好きな上に、江戸在勤時代(18歳~20歳)関東地方に発達した大型河川治水事業の実態を見、熱心に研究を積んだ結果であった。
 勝由は、嘉永元(1848)年22歳の時、土木技術の実力を認められ、代官見習いとして初めて井堰修理に携わり、嘉永6 (1853)年には代官に抜擢され、以来井堰に関する権威者として、改修改築に手腕を発揮し、その名声は近藩にも知れ渡っていた。勝由は藩用で京都へしばしば出向いたが、途中、南桑田郡の馬路、河原林などでは大堰川の井堰修復について、地元庄屋から指導を求められ、工法等について終始指導助言を与えていたという。
 綾部井堰の水路を天田井堰水路につなぎ、現在の綾部用水の基礎を開いたことは、勝由がいなければできなかったといわれる。
 江戸末期の慶応2 (1866)年2度の洪水が綾部藩領を襲った。川沿いの田畑がほぽ全滅し、綾部、天田井堰も損害を受け、復旧の目処が立たなかった。
 勝由はこのとき40歳、「綾部水路と天田水路をつなぎ、永久的に水を送れるようにするほかに解決策はない」として九鬼藩主に水路連結工事の開始を願い出た。
 両水路を結ぶには、約900mにも及ぶ溝を新たに掘る必要がある。人手と費用を出す農民の負担が大きすぎ、天田水路沿いの農民たちは近藤宅に押し掛け、「困難にして無謀」と訴えたが、勝由は「私財をなげうってでも行う」と説得、地元の大庄屋6代目羽室嘉右衛門(郡是創案者波多野鶴吉の父)の協力を得て、慶応3 (1867)年2月28日に工事に取りかかった。冬場の大工事は困難が予想されたが、勝由は昼夜を問わず現場に立ち農民たちを督励し、3月8日、わずか10日足らずで工事を完了させた。
(※1684年河村瑞軒が大阪安治川長さ1、600間、幅50間を20日間で開削していることからも、10日程での完成は可能である。また、娘きんの思い出の中に1、200人の話がでてくるが、1、200人が工事に要した人足数と推測される。)
 維新後勝由は京都府役人を務めたが、明治13年54歳の時、綾部郵便局長見習いに就任した。
 明治に入り度々の洪水のため綾部井堰は破損がちで水上がりが悪く、ことに明治16年は干天が続き、75日開削が降らず大干ばつとなったことや翌17(1884)年の洪水により井堰の堰体や樋門が大被害を受けたとき、この修理ができるものがなく、井組において堰体の根本改築を計画、当時郵便局長見習いであった近藤勝由に依頼して、この大工事を敢行することになった。乞われて現職のまま井堰復旧に奉仕したことは異色のことである。
 勝由は綾部井堰が水上がりが悪い横堰(推定約230m)であったことから、改築に当たり登堰(推定約500m)に改め、井口から川向こうの味方村笠原神社の下手へ斜めに堰体を築くことにした。それとともに井口の樋門も大改造を加え用水不足を一挙に解決しようとしたものである。
 工事内容の詳細は分からないが、普請手控帳によって大工事であったことが知られる。切留工事 人足11、140人、飯米約335石。水門工事 人足11、166人、飯米約333石。等、また堰体の構造は杭を打ち並べ木の枠を組んで石詰めにする工法で、いわゆる洗堰構造で莫大な資材と労力を費やしたが、わずか3旬(30日)にして完成した。
 明治17年に改築された登堰の様子は明治26年の地形図で垣間見ることができる。
 登堰のすぐ下流には大きな砂州が広がっており、洪水での危険性は増している。逆に、水上がりは大変良かったと考えられる。

 旧綾部藩領の沃野を養う農民の命水ともいうべき綾部井堰を終生掛けて護持した勝由への感謝は、勝由の生前明治25年8月、時の郡長宮崎清風の撰書になる「延裏新溝之記」の碑文に表現され、長く並松の一本木(樋門の近く)に建てられていたが、その後綾部市役所前庭に移されている。また、昭和10年水利組合によって熊野神社境内に建立された「近藤勝由頌徳碑」には、「延裏新溝之記」の碑文がそのまま記されている。熊野神社が移転したため、現在は市民センターの南東側に位置する。
 頌徳碑は、勝由が世を去った後、「延裏新溝之記」碑石が並松付近の開拓や道路拡張のため草地に放置され顧みる者もない有様であったため、改めて建立されたものである。勝由は明治34 (1901)年9月75歳で没している。
綾部市役所前の石碑「延裏新溝之記」
綾部市役所前の石碑「延裏新溝之記」
近藤勝由の経歴
文政10 (1827)年 綾部藩士の子として生まれる
弘化元(1844)年 江戸勤番を命ぜられる
嘉永元(1848)年 代官見習役に任ぜられる
嘉永6 (1853)年 代官に任ぜられる(27歳)
慶応3 (1867)年 2月延裏新溝献策
明治元(1868)年 中小姓に任ぜられる
明治5 (1872)年 九州代官所金穀取調役
明治7 (1874)年 京都府へ出仕を命ぜられる
明治8 (1875)年 綾部県庁詰、金穀出納役
明治13(1880)年 綾部郵便局長見習いに就任
明治17 (1884)年 8月綾部井堰を登堰に改造
明治19 (1886)年 綾部郵便局長に就任
明治21 (1888)年 綾部郵便局長退職
明治34 (1901)年 9月没(75歳)
同市役所前石碑の碑文 「延裏新溝之記」一部
同市役所前石碑の碑文 「延裏新溝之記」一部

2.綾部井堰の創設時期
 綾部の平野部には、由良川を堰止めて用水をとる大きな井堰が約4kmの間に3か所設けられていた。綾部井堰、栗村井堰と天田井堰である。
 天田井堰は、慶応3(1867)年に延裏新溝が造られ、天田井堰の水路に綾部井堰の水路をつなぐことによって廃止され、現在綾部井堰と栗村井堰がある。
 これら三井堰がどの時代に築かれたかは明らかでない。伝承によると、綾部井堰は12世紀に平重盛が綾部を領していたときに築いたというものや、綾部・栗村・天田井堰とも明智光秀が丹波を支配していたときに造ったという記録(「丹波志」)がある。
 これまでの一般的な潅漑の歴史から見て、古代国家の権力の強かったころには大きな土木工事が行われ、讃媛(香川県)の満濃池(701年ごら)や河内(大阪府狭山市)の狭山池(616年ごろ)などが築かれているが、中世荘園制の時代にはこれらがすたれ、近世のはじめのころになって再び大きな水利潅漑の施設が築かれたとされている。
 しかしながら、由良川の本流を塞き止めて堰をつくるには、大きな政治権力が必要であるとともに、その用水を受け、井堰の管理にあたる村々の惣村的な結集がなければならないと考えられ、共同体としての村落が成立するのは中世末期で、そのころに何鹿郡の中西部を支配していた大きな勢力は考えにくいとされている。
 天田井堰では、寛永17 (1640)年以降の資料によると、井堰についてたびたび村々に紛争が起こり、京都奉行所へ訴え出ている。この紛争解決のあとで、井組の村々の庄屋、年寄、百姓総代が署名して証文を取り加わしているが、そのあとには、「取扱人」(立会人)として近隣の大庄屋が署名している。これは、用水問題の解決には慣習的なものがあり、領主の裁断だけでは治まらないことを示している。用水慣行が中世に始まったことを考えると、綾部・天田・栗村の井堰は中世末か近世初めころに初めて築かれたとも考えられるのである。
 なお、由良川から取水ができない地域で安場川、荒倉川の水を利用できるところは溜池を築き川の水を溜めた。その他、並松の重ね橋のたもとから田野川の水を引いて並松から一本木を経て川糸通りを流れ、綾中、青野方面を潅漑する上井溝があった。これは相当古い水路とみられている。

3.綾部井堰と天田井堰
 旧綾部井堰は、ほぼ現在の位置に築かれていた井堰であり、受益地は青野・町分・井兪・岡・延・大嶋の材々であった。
 寛永11 (1634)年、九鬼隆季が綾部に入部し、下市場に藩邸を築いたときの絵図には、既にこの井堰の水路が記されている。
 天保(1830)ごろに記された藩の記録には次のように記されている。井堰長240間、味方より川除新堰25間享保19年春出来。井堰掛り井組並びに人足、青野23人、町分14人、井倉16人、岡14人、延24人、大嶋24人、計115人。堰繕杭桁、桁500本、杭5、000木。
 井堰は杭木洗堰で、形は登堰であったから堰長が長い。井堰掛り人足は年々出役する人数が定められていた。堰の杭・桁は、井根山(大師山)と須知山の2か所を井堰御留山としており、藩の許可を得て切り出して用いた。井根山というのは、昔から山の木を井堰構築用に用いたので、その名が付いたと伝えられている。また、井根山は明治のころまで杭材料の栗や松の木が多く生えていた。栗材は堅く、松は水に強い材木である。
 慶応2 (1866)年の大洪水で最下流にあった天田井堰が大破し、綾部藩士近藤勝由代官は、第十代藩主九鬼隆備に両井堰の統合を献策し、大庄屋羽室嘉右衛門の協力を得て延裏に新溝を堀ることにし、延町大将軍より天田井堰の井口のある大島町稲荷神社裏まで長さ8町余(約900m)幅4間の水路で、慶応3 (1867)年2月に着工、3月に工事を完成させ、両井堰の水路は一本化された。これにより綾部用水の基礎ができあがった。この水路が大島水路であり、通称堀川と呼ばれている。
 ※単位1町=108m、1間=1.818m、1尺=0.303m
 天田井堰は、もと高津村字天田井にあったが、水上げが悪いため、寛永17 (1640)年それより500間(約900m)川上の大島村稲荷神社(稲荷神社は由良川改修などのため福田神社境内に移転している)の北に移され、新堰から旧堰の水路までの幅8間、長さ500間の新溝を堀って水を通した。この溝は「五百聞堀」と呼ばれた。
 その後も、天田井堰はたびたび洪水で堰が切れた。正徳4 (1714)年の洪水で大島村の田畑が削り取られ、享保20 (1735)年には土手井口ともに崩れ田畑がおびただしく削り取られたため、井□を200間川下の稲荷神社の土手へ下げて280間の登堰を築いた。
しかし、宝暦13 (1763)年の洪水で再び田地が削り取られたのである。

 当時の天田井堰も杭木洗堰で、川を横切って2列に杭を打ち、その中に石を詰めた構造で漏水が多く、用水路へ多くの水を導くことができなかった。そのため、堰を登堰にしないと水上がりが悪く、下流は水不足で困るが、登堰にすると洪水の時に大嶋村の河岸が削り取られるため大嶋村が迷惑するということで、井堰の構造が紛争の焦点となっていた。宝暦14 (1764)年の大嶋村井堰絵図では、井堰の変遷や大嶋村河岸に水制とともに大きな渦が画かれ、流れの激しさが表されている。
 ※「水制」とは、河川の水の勢いを和らげたり、水の流れを変えるため、河岸から河の中央に向けて設ける工作物。

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図書紹介

綾部 福知山 用排水路改良史

綾部 福知山 用排水路改良史
昭和47年11月11日発刊 (非売品 )B5版460ページにおよぶ大冊である
編集者:綾部市安場町 村上祐二/綾部市西坂町 植田徳治
発行人:綾部井堰土地改良区 山口武右エ門
発行所:綾部市若竹町 綾部井堰土地改良区

綾部の風土と由良川、綾部井堰の沿革を井堰創成期から考察し、変遷を重ねた井堰の歴史を書き記し、それぞれの水利組合の管理時代における出来事、運営状況など詳細にデーターを駆使して記述されている。

綾部青年会議所発刊の冊子「丹の国・綾部」の編集に取り組むべく、昭和46年に塩見清毅、吉田藤治さんの両先輩と連れだって、資料収集のために、綾部町史の編纂者、市教育長であった村上祐二氏を安場の自宅に訪ねました。たまたま村上祐二氏は私の弟の岳父であり、快く綾部の歴史、由良川についての様々な知識を教えていただきましたが、その年に故人となってしまわれました。この「用排水路改良史」はその翌年になってから発刊されています。

先に写真を紹介した並松河畔の「近藤勝由翁頌徳碑」について、碑文の解説に関わる参考資料の提供を文化財を守る会の四方續夫事務局長に依頼したところ、早速この書籍を届けていただいた

近藤勝由翁の事跡については、付録「綾部井堰の恩人 近藤勝由」の項にて写真、近藤勝由翁頌徳碑、延裏新溝之記として掲載されている。

別途、京都府出版のパンフレット「綾部用水ー綾部井堰の変せんといまー」を提供いただいたので「用排水路改良史」からの引用紹介は取りやめる。

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図書紹介

由良川の流れに沿って・・並松史

緑の文化財「綾部の古木名木100選」の由良川並松町川岸:クロマツ、並松の由来となったの紹介資料(後日、四方續夫事務局長が記事アップ予定)
さらに、先の「由良川井堰中興の祖 近藤勝由頌徳碑」および「綾部井堰堰堤工事などの記念塔」の関係資料として、この「並松史」を求めたところ、早速にも四方續夫事務局長より届けていただいた
由良川の流れに沿って・・並松史
並松町自治会編A4版60ページ、並松史編集委員会(四方真人、朝日達郎、余田修、上西信行、四方源太郎)の手になる冊子である。

上記の近藤勝由、綾部井堰に関係する記述を以下に引用させていただく。頌徳碑の碑文についての解読はまた別の資料をさがすこととする。

☆由良川の井堰
 並松には綾部井堰がある。井堰は灌漑用として田畑で利用する水を確保するために築かれた。「伝承によると、綾部井堰は平重盛が綾部を領していたときに築いたということであり・・」と『綾部市史』には記されているが、いつ頃からのものであるかの確かな史料はない。寛永11年(1634)に九鬼隆季が綾部に入ったときの絵地図には、すでに綾部井堰が記されている。
 綾部史談会の山崎巌会長によると、史談会の歴代会長によって、この点については異なる見解があるそうだ。重盛による築造というのは村上祐二さんの説であり、その後、梅原三郎さんは『大規模な土木工事には、この地域をまとめる大きな権力が必要だ」と見ていて、室町・戦国時代の頃ではないかと考えておられたという。
 山崎さんは江戸時代後期に福知山藩士が書いた『丹波志』の「何鹿郡の部」に、「綾部井堰は明智氏によって作られた」という記述があることを根拠に、明智光秀が築造したのではないかとの説を支持しておられる。ただ、光秀は2年程しか丹波を治めていなかったので、その短期間に綾部井堰のような大事業ができたのかという疑問もあり、今のところ築造時期は不明とのことであった。
 堰の杭や桁に使用する材木は、須知山口井根山(大師山)と田野村宮ノ奥のニケ所を井堰御留山として、藩の許可を得て切り出していた。井根山の名は、井堰の杭に由来している。

 綾部藩は、天田井堰の復修や上流と下流の農民による水をめぐる紛争に手を焼いていた。慶応2年(1866)の大洪水で綾部井堰の下流にある天田井堰が大破したため、綾部藩の代官近藤勝由は、藩主九鬼隆備に二つの井堰を一つにすることを提案し、中筋村の大庄屋羽室嘉右衛門の協力を得て、慶応3年3月にエ事を完成させ、これにより、現在の綾部用水の基礎ができた。
 明治17年にも、近藤(当時は士族)は綾部井堰を急斜式(登り堰)に改造する工事を行った。この近藤の功績を顕彰する碑が並松町の市民センター横に建てられている。
 後に、昭和28年の台風13号によって、江戸時代からのこの綾部井堰は跡形もなく流失した。これは灌漑や水道に大きな影響を与えたため、早急な復旧が求められ、綾部市が建設省から1億円余りの災害復旧費を受けて、29年2月から工事を開始し、35年に完了した。
 古い綾部井堰は、由良川を斜めに横断していたので、28年の水害では味方地区に大きな被害を与えた。そのため、現在のものは水流と直角になるように設計されている。現在の井堰は、長さ212.3m、幅45m、落差2mの当時としては近代的な堰堤であった。

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シャローム&サラーム from 綾部

平成15年度中東和平プロジェクトで制作され、啓発冊子にも掲載した「シャローム&サラーム From 綾部」は、平和を願う素晴らしい曲であるので、市民に普及するよう啓発冊子の付録としてCDを作製した
シャローム&サラーム from 綾部
<「シャローム&サラーム From 綾部CD作製>
 ・作製部数 - 1、000部
 ・3曲入り(うち2曲はカラオケ)
 ・啓発冊子の付録として、20年度販売分から付ける
シャローム&サラーム From 綾部
1.この空は どこへ 続くの 憧れを乗せて
  この空は どこへ続くの あなたの心へ
  悲しい時にもルルルルル 苦しい時も
  言葉に代えてルルルルル 私は唄う
  シヤローム サラーム 心から
  シヤロームサラーム いまあなたに
2.あの星は どこから 来だの 悦びを包み
  あの星はどこから来だの 願いをかけよう
  淋しい時にもルルルルル 泣きたい時も
  あなたとともにルルルルル 私は唄う
  シヤローム サラーム 心から
  シヤローム サラーム 声合せて
3.かけがえのない この星を みなで守ろうよ
  かけがえのない この星が 平和になるよう
  夢と希望に輝いて 未来を照らす
  肩を寄せ合いルルルルル みんなで唄おう
  シヤローム サラーム フロム綾部
  シヤローム サラーム フロム綾部

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世界連邦への道

○ 世界連邦啓発冊子「世界連邦への道」の作製と活用
  平成18年度からの継続事業。 10月13日発行。
  市民に世界連邦をより深く理解してもらうため、協会として独自の啓発冊子を作製、中学生程度からでも理解できる内容で、世界連邦について体系的にまとめた冊子で、企画委員会を中心に編集、印刷に取り組んだ
世界連邦への道
<冊子の作製>
 ・規  格 - B5判、104ページ
         表紙:4色刷り、裏表紙:1色刷り、本文:両面1色刷り
 ・作製部数 - 2、000部
 ・販売金額 - 1冊500円
 ・対  象 一 中学生以上
 ・冊子の構成
第1章 みんなの幸せと世界連邦
     世界連邦運動の基本について語りかける
第2章 平和のまち綾部での足跡
     世運宣言以来の半世紀にわたる綾部市の運動を紹介
第3章 世界連邦の実現に向けて
     これまでの人類史の中で模索されてきた世界連邦へのステップを学ぶ
 「綾部世界連邦市民講座」から
     講師四方綾部市長と鹿子木会長の平成18年度の講座の要旨
私たちの思い
     小・中学生ポスター作文コンクール入賞作品を紹介
資 料 平和関連モニュメント、平和のまち綾部の足跡(略年表)など
<冊子の活用>
 ・冊子を教材にして世界連邦市民学習会を開催した。
 ・啓発冊子の頒布に努めた。
 ・各関係機関へ無料配布した(世界連邦運動協会各支部、世界連邦宣言自治体全国協議会加盟自治体など)。

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島万神社の太鼓踊と太刀振 DVD完成

「島万神社無形文化財」記録映像 平成19年3月
京都府登録無形民俗文化財 綾部市指定無形民俗文化財
記録編
祭礼の記録:21分 太鼓踊編:61分 太刀振編:59分
島万神社の太鼓踊と太刀振 DVD完成
お求めは、嶋萬神社無形文化財保存会会計(副会長)渡辺和昭さま0773-42-0651
綾部市七百石町竹安3まで 5枚組DVD:4000円
企画:嶋萬神社無形文化財保存会
製作:株式会社CNインタ-ボイス
島万神社の太鼓踊と太刀振 記録編
島万神社の太鼓踊と太刀振 記録編
島万神社の太鼓踊と太刀振 資料編:38分のDVDカバ-
資料編:38分のDVDカバ-
教材編 太鼓踊:1時間38分 DVDのカバ-
教材編 太鼓踊:1時間38分 DVDのカバ-
教材編 太刀振Ⅰ DVD
教材編 太刀振Ⅰ 2時間1分 DVD
教材編 太刀振Ⅱ 2時間5分 DVD カバ-

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大槻重助伝 村上利男著

変動の渦の中に置かれた一人の丹波の青年が、勤王僧月照と行動をともにするうち、いつの間にか世の変革に貢献し、歴史のひとコマを作る手助けをしたのである。それは丹波人特有の実直さから来るものであるが、月照からの信頼感、また平野国臣や西郷隆盛といった幕末の志士との交流によって培われたひたむきな行動力の賜でもあった。
大槻重助伝 村上利男著
維新の影の功労者 1000円+税
勤王僧月照に信頼され、幕末の志士、平野国臣と悲嘆に暮れ、西郷隆盛に感謝された、誠実一筋の人、大槻重助の本格的評伝
動乱の京都から薩摩への逃避行!その行く手に待ち受ける過酷な運命を描く!

著者プロフィ-ル
村上利男(むらかみとしお)氏
1925年、京都府綾部市高津町出身。「大槻重助を顕彰する会」主催。平成9年、勲五等双光旭日章の勲章授章。

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綾部西国観音霊場会発行新年号「慈光」について

京都府綾部市「もと可鹿郡(いかるがぐん)」には戦前、可鹿郡西国霊場会があり33ヶ寺を巡拝していた。このことは下記をクリックして頂くと掲載されたものがでます。現在は「綾部西国観音霊場会」と名ずけられ、33ヶ寺と番外6ヶ寺が加盟しています。檀家数およそ、2,500戸でお正月とお盆にこの会報「慈光」が配布されます。今年の担当は小生の所属する臨済宗妙心寺派の吉美地区多田町の「円照寺」で寺総代3名のうちの1人四方終一氏から続(つぐ)ちゃんは綾部の仏像を沢山撮影していると聞いているが、円照寺の相川住職と一度早急に話して欲しいとの事。住職と話しするとこの「慈光」に掲載する六観音様の写真が必要との事、ましてや、同じ編集委員の西方町の真言宗「宝満寺」の松本龍雄住職には今春、仏像撮影に大変お世話になっている。この方の弟さんは、知る人ぞ、知る「京都・清水寺の名誉管長の松本大円師」である。時間がなく、すぐ調べてみると、臨済宗妙心寺派の下八田の「梅岩寺の十一面観音様」の写真以外は全て撮りなをさねばならない。未熟なものだが、住職に電話して貰い翌日,4ヶ寺を回って撮影した。隆興寺ではバックのお釈迦様が写り、姫坂住職に拝んでマットに移して頂き撮影したが、これは始めてで大失敗、上手く撮影できたと思っていたが、てんで駄目。しかし、印刷屋さんが上手く枠撮りして頂いたので助かった。
新年合併号「慈光」表と裏
平成19年44・45号新年合併号「慈光」表と裏
宝満寺の松本龍雄師の「女人観音様」
西方町の宝満寺の松本龍雄師の「女人観音様」
知ってましたか?観音様
「知ってましたか?観音様」地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道の苦悩を救済する六観音様
霊場会ニュース
霊場会ニュース

詳細関連事項は下記をクリック願います。
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/214.html

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歴代天皇事典

四方續夫事務局長より、投稿の某八幡宮の祭神について応仁天皇とあるのは誤字で八幡大菩薩=応神天皇、母:神功皇后であるとの指摘があった。
歴代天皇について文庫本「歴代天皇事典:高森明勅著:PHP文庫が出版されたので紹介する。なお綾部=漢部に関係の深い漢氏(あやし)、秦氏(はたし)の来歴についても記述があり、応神天皇の項を引用する。
歴代天皇事典
第十五代 応神天皇
御名・異名:譽田別尊(ほむたわけのみこと)生没年:?(?~394?)(?歳)、在位:41年?、父:仲哀天皇、母:気長足姫尊(神功皇后)、皇后:仲姫命(五百城入彦皇子の孫)
 仲哀天皇の死後、皇太后(神功皇后)が朝鮮に出兵し、新羅を服属させた。そして、筑紫に帰り、皇子を産んだ。こうして誕生したのが譽田別尊だが、出産のとき、この皇子の腕には肉が盛り上がっていた。それが、皇太后が雄々しく男装して鞆(ほむた:弓の弦が左臂に当たるのを防ぐためにつける革製の道具)をつけたのに似ていた。そこで、それをたたえて譽田天皇といった。
 譽田別尊は幼いときから聡明で、ものごとを深く遠くまで見通した。立ち居振舞いにも不思議と聖帝のきざしがあったという。三歳で皇太子となり、摂政として政事を行っていた皇太后が崩御すると、即位した(応神天皇)。
 応神天皇は四世紀後半から五世紀前半にかけて活躍したと考えられる天皇で、皇太后のあとを受けて、積極的な外交を行った。高句麗、百済、新羅から入貢があり、それに伴いたくさんの文化や技術も伝えられた。たとえば、応神十六年に百済から王仁が来朝し、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらっこ)に諸々の典籍を教えた。この王仁の来朝により、日本に儒学が伝来されたといわれている。
 かっては、文字が日本に伝わったのも王仁の来朝によるものといわれてきたが、文字の伝来はずっと古く、一世紀には入っていたと考えられる。
 技術についても、応神20年に漢人の阿知使主(あちのおみ)が大勢の人々を率いて日本に渡来し、漢氏(あやし)となって大陸の新技術を伝えた。
 また、秦の始皇帝の子孫という秦氏が日本に渡来したのも天皇の時代といわれ、秦氏は各地に分散して養蚕、機織の技術を広めた。こうして日本は、政治、外交だけでなく、文化や学問においても国家としてより一層発展していった。
 応神二十二年、天皇が難波の大隅宮で高台に登って遠くを眺めていると、妃の兄緩(えひめ)が大いに歎いた。そこで天皇が理由を問くと、「父母が恋しく悲しくなったのです」と答え、「しばらく親元へ帰して欲しい」と願った。すると天皇は、兄緩か何年も両親と会っていないのを思い、ただちに願いを聞いたという。
 天皇は『古事記』によると百三十歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御した。応神天皇陵といわれる誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府羽曳野市)は、国内第二位の大規模な古墳として知られている。

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大峯山の女人禁制について

大峯山修業

金峯山(山上ケ岳)の女人禁制について
綾部の文化財を守る会の研修旅行「世界文化遺産・吉野の国宝と文化財を訪ねて」の80名のバス2台の車中で回覧されたのが、この週刊朝日6/17号です。
時の人、田中利典師は、綾部のご出身で自坊も綾部市渕垣町にあり、乗り合わせた会員にも多数の知人がおられました。

週刊朝日6/17号/60頁
夫婦の情景より
幾重にも重なる山々にこだまする法螺貝の音が、山伏の季節が到来したことを告げている。紀伊半島の霊峰大峯山脈を尾根づたいに行く「大峯奥駈道」は、吉野山に始まる。山伏である夫は、この修験者の道を世界文化遺産に登録させた仕掛け人だった。霊域と世俗を行き来する夫と、彼を支える妻に会いに、修験道の聖地・吉野山を訪ねた。

◆女人禁制
夫「在家でありながら修行するのが山伏の本分。親父は国鉄に勤めながら修行していました。綾部はもともと行者信仰があついところで。昔はもっと厳格で、留守番の家族の者も精進していました。親父は、着々と私がこの道を歩むようにしていったのだと思います」
妻「私も行きたいなと思いますよ。ひざも悪いし、若いうちに行きたいなという気持ちはあります。小学校の林間学校でも大峯山に登ったのは男子だけでした。女も入らせてくださいと毎年訴えに来られる人の意見も同性としてわかる。でも、女人禁制を守っている人たちの意見もよくわかる」
夫「女人禁制によって大峯山の非日常性、聖地性が高められてきたのは間違いありません。ただし女人禁制自体は信仰ではない。大切なのは、今の時代に禁制を堅持することが大峯山の信仰を守っていくのに大事かどうかです。これは、信仰にかかわっている宗教者たちが問い直すべきです。ジェンダーフリーの人たちが、人権問題として開けろと主張する問題ではありません。そんなことをしたら先人たちに申し訳ない」
妻「家でも議論したこともありますが、私が『開けたら』と言って、主人が『開けるわ』と言う問題でもないんです」夫は大学卒業後、金峯山寺に勤めた。吉野山にある東南院の宿坊でアルバイトしていた妻と出会ったとき、妻は高校生だった。
夫「かわいらしいなと思って……」   後略します

なお、HP「役行者ファン倶楽部」の掲示板「役行者・修験道を語る」「吉野山人」のハンドルネームで書かれている下記検索で詳しい内容が伺えます。

最上段の「検索」→キーワード「女人禁制」と入力 →検索領域 中央の「○ログ」をチェック →「検索」ボタンを実行 →36件、A4版41ページの関連資料があります。「大峯山の女人禁制について」「修験道ルネッサンス」など素晴らしいものです。是非ご一読ください。
注:セキュリティにオカルトを設定の方は解除しないと見られないかも?

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吉野薫風抄 金峯山寺宗務総長 田中利典師著

吉野薫風抄 田中利典師著

世界遺産登録・吉野の国宝を訪ねての研修旅行は、梅雨入りが延びて、好天気に恵まれ素晴らしい研修となりました。
綾部出身の田中利典師には、格別のご配慮を賜り、特別ご開帳中の国宝・金峯山寺金剛蔵王権現像を前に法話をしていただき、続いて蔵王権現本地堂でも法話を賜った後、権現堂の前での記念写真撮影に加わっていただきました。世界遺産登録達成の主役を勤められ、週間朝日6/17日号に夫婦の情景の記事が掲載され、時の人です。ご多忙の中、本当にお世話になりました。

スキャナ-・OCRで収録。
初版本あとがき
何時頃からだろうか、本を出版するのが私の夢であった。けれども小説が書けるほどの文才があるわけでもなく、人に発表するような研究をしているわけでもない私が、本を出すなど、どう考えて到底実現出来そうになくて、夢は夢のまま、わが胸の奥深くしまいこんでいたのであった。
 龍谷大学教授浅田正博先生は、私の大学時代以来の恩師である。ある時、「先生、蔵王清風をまとめてみたいんですが…」と言ったところ、「おもしろいんじゃない、やってみれば」と、思わぬ賛同を頂いた。本にするような内容じゃないなと内心思ってはいたものの、かねてより本を出したいと念願していただけに、光生のこの言葉は百千万の味方を得たよりも心強く、夢が少しずつ現実味を帯びてきたのである。
さて、本書は、合峯山修験本宗の機関誌『金峯山特報』に昭和五十七年四月から平成三年十二月にかけて、九年にわたり〈蔵王清風〉として執筆した拙文を『古野薫風抄ー修験道に想う』と改題して収録したものである。薫風とはかおりのよい風という意味もあるが、ここでは薫習(物に香りが移りしむように、仏の教えが心に残り留まること)を起こす風というような想いを込めて使わせて頂いた。
 もともと〈蔵王清風〉は金峯山特報に連載されていたコラムで、本宗の五條順教管長猊下や故磯矢浄光宗務総長が執筆を担当されていた由緒正しい随筆欄であった。しかし私が金峯山寺に入山し、時報の編集に携わるようになった昭和五十六年当時は、すでに休載となっていたのである。
編集に就いて間もない私であったが、なんとかこの由緒あるコラム欄を復活させたいと願い、この旨を管長猊下に申し出た。ところが、「君が書いてみろ」と予期せぬ事態となり、全くの浅学非才を顧みぬまま、ペンを執らせて頂くようになったのである。
 本書編集に際し、改めて読み返してみて、・・・後略
平成四年、蔵王堂再建四百年の初夏 著者

新装版あとがき
 十三年ぶりに『古野薫風抄』が新装本として復刊となった。筆者として感慨深いものがある。実は昨年秋に『修験道っておもしろい!』(白馬社刊)と『はじめての修験道』(正木晃氏との共著、春秋社刊)の拙著二冊が上梓されたが、正直に言うと私にとっては両書より、一から十まで手作りで出版した処女随筆巣『古野薫風抄』への思い入れの方が格段に大きい。出版以来、何度も読み返しているのに、未だに時々本棚から取り出しては読むことさえある。しかも読かたびに、若気の至りを恥じ入る所もあるが、自分で言いた文章に、改めて感銘を受けたりもする。そういうと、呆けたのかと思われるかもしれないし、逆に、なんだかナルシストでいやらしい奴だと思われるかも知れないが、そうではなく、現在よりあの頃の文章の方が、一所懸命で、情熱に満ちていて、忘れていた熱いものを思い出させてくれたりするのである。ま、人間的に少しも成長してしない証なのかもしれないが…。
 いずれにしろ金峯山時報社刊ということで、金峯山寺以外では販売していなかった本書が、白馬社さんでの出版を機会に、広く世に出ることになるのは、たまらなく嬉しいものだ。最愛の子供を、褒められたような気分なのである。
 復刻に当たって、初版本から、少し書き換えたり、新たに差し替えたりしたものもあるが、未熟ながら全編、三十歳前後の生き生きした私のつぶやきである。
 末尾になるが、復刻に当たって私には誉めすぎとも思える素情らしい巻頭言を贈っていただいた正木晃先生と、快く挿絵写真の提供をいただいた岡橋実浄氏並びに藤田庄市氏、金峯山寺写真部に御礼を申し上げたい。また初版完売以来埋もれつつあった本書を、世に出してやりうという誠に奇特な提案をいただいた白馬社の西村孝文社長にも、深く感謝の意を捧げるものである。
平成十七年乙酉二月 齢五十の記念として 田中利典 師

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修験道って面白い!:田中利典氏著

修験道って面白い!:田中利典氏著

綾部の文化財を守る会からの回覧です。
見出し:修験道の修行は、大自然の中で風を拝み、岩を拝み、本を拝みながら行われる。現代の日常生活では考えられない過酷さである。
しかし、その修行に魅せられ、何度も繰り返していくうちに不思議な力を得るのである。それは、こころと身体の理想的な調和であり、生と死を超越する「行」の世界の体験である。
大峯奥駆修行は、その代表である。近年、多くの一般の参加者か山伏たちとともに修行に入っている。
山中修行の体験で蘇った人々はやがて、日常生活の中で自分とその回りを変えていくだろう。
大挙修行:大峯修行とは
 古野から熊野にかげて紀伊半島の中心を背骨のように貫いて存在するのが、霊峰大峯山脈。修験道の開祖役行者によって聞かれた、最高にして最大の修験根本道場である。
 未だに女人禁制を堅持することで知られる大峯山山上ケ岳。その山上ケ岳一帯を含む北端の古野山から南端の熊野本宮に至るまで、弥山、八経ケ岳、釈迦岳、行仙岳、笠捨山、地蔵岳、大黒天岳など仏縁に繋がる山名を冠した、千五百メートル級の山々が続く大峯山脈全体を信仰的に尊称して大峯山と呼ぶ。まさにここは修験道の聖地中の聖地なのである。
 因みに大峯山のうち、古野山から山上ケ岳に至る山々を金峯山(きんぷせん)と呼び、山上ケ岳とは金峯山の山上にあたるところからその名を得たといわれる(だから本来は大峯山山上ケ岳ではなく、金峯山山上ケ岳か正しい)。この古野・大峯を中心に、我が国独特の民族宗教・修験道は千三百年の歴史と文化を刻み、その信仰を脈々と現代に伝えてきたのだ。
 一般にその名が知られる修験道の奥駈行は、大峯山脈を尾根づたいに約百七十キロにわたって跋渉する修行である。大峯奥駈道こそ、開祖役行者に由来する修験道史上最も尊ばれた修行道なのである。
 古野・大峯とそこにはぐくまれた修験道の営みを知ることは、むずかしく言うならば日本の基層の文化と宗教に触れることである。またそこを体験することは単に自然に親しむということだけではなく、大袈裟に聞こえるかもしれないが、日本人としてのアイデンティティ(自己同一性)のひとつを取り戻すことでさえあると私は思っている。・・後略
行力(ぎょうりき)
前略:かといって修行をして、なにも験力を得ていないのかというとそうでもない。私は常々「葬式は霊魂の存在を前提として行うものであるし、加持祈祷は奇跡を前提として行うものである」と思っている。その体で言うなら普段の法務で行っている護摩供修法や加持祈祷の諸作法は、基本的には人智を超えた神仏による奇跡が前提とたっているのであり、その奇跡が行われるのは偏に行者の行力が背景にあるからこそであろう。いわゆる験力ともいえよう。私も頼りないながらも、修行で得た験力を基本として、加持祈祷に臨んでいるのである。実際、行中にいろんな不思議を経験することは多い。・・後略
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