大峯山の女人禁制について

金峯山(山上ケ岳)の女人禁制について
綾部の文化財を守る会の研修旅行「世界文化遺産・吉野の国宝と文化財を訪ねて」の80名のバス2台の車中で回覧されたのが、この週刊朝日6/17号です。
時の人、田中利典師は、綾部のご出身で自坊も綾部市渕垣町にあり、乗り合わせた会員にも多数の知人がおられました。
週刊朝日6/17号/60頁
夫婦の情景より
幾重にも重なる山々にこだまする法螺貝の音が、山伏の季節が到来したことを告げている。紀伊半島の霊峰大峯山脈を尾根づたいに行く「大峯奥駈道」は、吉野山に始まる。山伏である夫は、この修験者の道を世界文化遺産に登録させた仕掛け人だった。霊域と世俗を行き来する夫と、彼を支える妻に会いに、修験道の聖地・吉野山を訪ねた。
◆女人禁制
夫「在家でありながら修行するのが山伏の本分。親父は国鉄に勤めながら修行していました。綾部はもともと行者信仰があついところで。昔はもっと厳格で、留守番の家族の者も精進していました。親父は、着々と私がこの道を歩むようにしていったのだと思います」
妻「私も行きたいなと思いますよ。ひざも悪いし、若いうちに行きたいなという気持ちはあります。小学校の林間学校でも大峯山に登ったのは男子だけでした。女も入らせてくださいと毎年訴えに来られる人の意見も同性としてわかる。でも、女人禁制を守っている人たちの意見もよくわかる」
夫「女人禁制によって大峯山の非日常性、聖地性が高められてきたのは間違いありません。ただし女人禁制自体は信仰ではない。大切なのは、今の時代に禁制を堅持することが大峯山の信仰を守っていくのに大事かどうかです。これは、信仰にかかわっている宗教者たちが問い直すべきです。ジェンダーフリーの人たちが、人権問題として開けろと主張する問題ではありません。そんなことをしたら先人たちに申し訳ない」
妻「家でも議論したこともありますが、私が『開けたら』と言って、主人が『開けるわ』と言う問題でもないんです」夫は大学卒業後、金峯山寺に勤めた。吉野山にある東南院の宿坊でアルバイトしていた妻と出会ったとき、妻は高校生だった。
夫「かわいらしいなと思って……」 後略します
なお、HP「役行者ファン倶楽部」の掲示板「役行者・修験道を語る」「吉野山人」のハンドルネームで書かれている下記検索で詳しい内容が伺えます。
最上段の「検索」→キーワード「女人禁制」と入力 →検索領域 中央の「○ログ」をチェック →「検索」ボタンを実行 →36件、A4版41ページの関連資料があります。「大峯山の女人禁制について」「修験道ルネッサンス」など素晴らしいものです。是非ご一読ください。
注:セキュリティにオカルトを設定の方は解除しないと見られないかも?
高倉神社の土用の丑祭(高倉町)
7月28日真夜中0時より「高倉神社の土用の丑祭」の宵宮祭が始まりました。5時頃「五葉の笹」を求めて奥宮神社付近でごそごそ探して居られる方がありましたが、昨年の笹枯れの影響で笹はほんの少し、見つかれば幸運です。午前9時から本殿正面横で本殿祭が始まりました。本年から四方律夫宮司様は交代され四方幸則宮司様(2名とも当会々員)で参加者はご来賓、各町自治会長です。
木下芳信議長、山崎巌(綾部史談会々長)ご夫妻とご友人、そして取材に綾部資料舘々長の近澤豊明氏の姿も見かけました。
吉美商工繁栄会の「はらわた餅」は飛ぶように売れ、6個入りが370円で小生も家内に頼まれ3セット買いました。
猛暑の中にもかかわらず、子供達は吉美公民館主催の輪投げ10円、スーパーボールすくい10円、福引きは良い商品で50円、みんな夢中のようでした。有岡町、多田町の野菜の販売、高倉町の花の株販売も好評でした。
木下芳信議長、山崎巌(綾部史談会々長)ご夫妻とご友人、そして取材に綾部資料舘々長の近澤豊明氏の姿も見かけました。
吉美商工繁栄会の「はらわた餅」は飛ぶように売れ、6個入りが370円で小生も家内に頼まれ3セット買いました。
猛暑の中にもかかわらず、子供達は吉美公民館主催の輪投げ10円、スーパーボールすくい10円、福引きは良い商品で50円、みんな夢中のようでした。有岡町、多田町の野菜の販売、高倉町の花の株販売も好評でした。
二千年の眠りから覚めた大賀ハス 極楽寺(白道路町)

この蓮は、昔、日本各地に生えていたものが二千年ぶりで蘇った古代蓮である。蓮にまつわる話として、故大賀一郎博士のことに触れなければならない。博士は昭和初期に南満州(中国東北部)で、数百年昔の蓮の種子を発見し、育て上げて学位を取り、蓮博士と称せられた学者。この池の蓮の種子も、博士が千葉市で発見した三粒の種子の一粒である。
千葉市検見川(けみがわ)は、大昔、海に近い一面の湿地で、地下は深い泥炭層である。博士は弟子の学生や地元学生の協力を得、毎日々々泥を掘ってはフルイにかけ、水で洗うという作業を続けた。昭和26年は第二次世界大戦後で、機器機械は乏しく、食物も不足な時代、今日見つからねば作業を中止しようと決意した40日目に、地下6米を掘ったところ、フルイに三粒の種子がかかる。昭和26年3月30日の夕方である。その時の博士の顔は涙と泥でグシャグシャだったという。
三粒の種子の一粒は博士の庭で、一粒は地元検見川で二千年の睡りから芽を出し、昭和27年7月18日に花が咲いた時は、生物の奇跡として、世界の学会は驚く。翌28年にはドイツの国際園芸博覧会で開花し、世界で認められ、「大賀ハス」と名付けられ、千葉県の文化財に指定されている。
今、京都府では府立植物園と、ここだけがこの珍しい蓮の花を咲かせている。
はちす葉の にごりにしまぬ こころもて なにかは 露の玉とあざむく 僧正 遍照
極楽寺 二千年の眠りから覚めた大賀ハス
二千年の眠りから覚めた大賀ハス 極楽寺
覚王寺の仁王像

山家資料館々長 塩見光夫氏より、次の投稿を頂きましたので掲載します。
もと願成寺と言ったが、廃寺同然となっていたものを、山家谷家第二代藩主衛政が菩提寺とし、又第三代衛広の帰依厚く、方丈、庫裏、阿弥陀堂、仁王門、鐘楼を造営し、寺観を整えた。明治維新後、旭町の住民のみでは守りきれず、この仁王像が海外に売られようとしたのを止める為に「当会」が発足した理由であります。
現在この仁王像は京都国立博物館に保管されほぼ十年に一回陳列展示される。(一)金剛力士像(阿形)・覚応寺伝来・木像彩色・鎌倉時代、京都府綾部市の覚応寺に伝来。筋骨などの部分を誇張しながら穏健にまとめ上げている。丹波地方を代表する仁王の一例。(二)金剛力士像(吽形)口を結ぶ阿形に比べて力感表現を主とし、それ故に全体のまとめ方に失敗した感もある。力み過ぎが一種の滑稽味を生んだ。(いずれも京都国立博物館の解説による。)
さんだ歴史資料収蔵の先進地視察

三田九鬼藩の地で人口急増都市である三田市の歴史資料収蔵センタ−、九鬼藩霊廟、三田城下町あと、九鬼陣屋跡、九鬼家住宅、柏原歴史資料館、柏原陣屋跡などを視察研修しました。
三田歴史資料収蔵の先進地視察レポ−トはここをクリック

いかるが民俗館、綾部史談会古文書部会など19名が参加。
柏原歴史資料館・栢原藩陣屋跡・田ステ女記念館のレポはこちら
吉野薫風抄 金峯山寺宗務総長 田中利典師著

世界遺産登録・吉野の国宝を訪ねての研修旅行は、梅雨入りが延びて、好天気に恵まれ素晴らしい研修となりました。
綾部出身の田中利典師には、格別のご配慮を賜り、特別ご開帳中の国宝・金峯山寺金剛蔵王権現像を前に法話をしていただき、続いて蔵王権現本地堂でも法話を賜った後、権現堂の前での記念写真撮影に加わっていただきました。世界遺産登録達成の主役を勤められ、週間朝日6/17日号に夫婦の情景の記事が掲載され、時の人です。ご多忙の中、本当にお世話になりました。
スキャナ−・OCRで収録。
初版本あとがき
何時頃からだろうか、本を出版するのが私の夢であった。けれども小説が書けるほどの文才があるわけでもなく、人に発表するような研究をしているわけでもない私が、本を出すなど、どう考えて到底実現出来そうになくて、夢は夢のまま、わが胸の奥深くしまいこんでいたのであった。
龍谷大学教授浅田正博先生は、私の大学時代以来の恩師である。ある時、「先生、蔵王清風をまとめてみたいんですが…」と言ったところ、「おもしろいんじゃない、やってみれば」と、思わぬ賛同を頂いた。本にするような内容じゃないなと内心思ってはいたものの、かねてより本を出したいと念願していただけに、光生のこの言葉は百千万の味方を得たよりも心強く、夢が少しずつ現実味を帯びてきたのである。
さて、本書は、合峯山修験本宗の機関誌『金峯山特報』に昭和五十七年四月から平成三年十二月にかけて、九年にわたり〈蔵王清風〉として執筆した拙文を『古野薫風抄ー修験道に想う』と改題して収録したものである。薫風とはかおりのよい風という意味もあるが、ここでは薫習(物に香りが移りしむように、仏の教えが心に残り留まること)を起こす風というような想いを込めて使わせて頂いた。
もともと〈蔵王清風〉は金峯山特報に連載されていたコラムで、本宗の五條順教管長猊下や故磯矢浄光宗務総長が執筆を担当されていた由緒正しい随筆欄であった。しかし私が金峯山寺に入山し、時報の編集に携わるようになった昭和五十六年当時は、すでに休載となっていたのである。
編集に就いて間もない私であったが、なんとかこの由緒あるコラム欄を復活させたいと願い、この旨を管長猊下に申し出た。ところが、「君が書いてみろ」と予期せぬ事態となり、全くの浅学非才を顧みぬまま、ペンを執らせて頂くようになったのである。
本書編集に際し、改めて読み返してみて、・・・後略
平成四年、蔵王堂再建四百年の初夏 著者
新装版あとがき
十三年ぶりに『古野薫風抄』が新装本として復刊となった。筆者として感慨深いものがある。実は昨年秋に『修験道っておもしろい!』(白馬社刊)と『はじめての修験道』(正木晃氏との共著、春秋社刊)の拙著二冊が上梓されたが、正直に言うと私にとっては両書より、一から十まで手作りで出版した処女随筆巣『古野薫風抄』への思い入れの方が格段に大きい。出版以来、何度も読み返しているのに、未だに時々本棚から取り出しては読むことさえある。しかも読かたびに、若気の至りを恥じ入る所もあるが、自分で言いた文章に、改めて感銘を受けたりもする。そういうと、呆けたのかと思われるかもしれないし、逆に、なんだかナルシストでいやらしい奴だと思われるかも知れないが、そうではなく、現在よりあの頃の文章の方が、一所懸命で、情熱に満ちていて、忘れていた熱いものを思い出させてくれたりするのである。ま、人間的に少しも成長してしない証なのかもしれないが…。
いずれにしろ金峯山時報社刊ということで、金峯山寺以外では販売していなかった本書が、白馬社さんでの出版を機会に、広く世に出ることになるのは、たまらなく嬉しいものだ。最愛の子供を、褒められたような気分なのである。
復刻に当たって、初版本から、少し書き換えたり、新たに差し替えたりしたものもあるが、未熟ながら全編、三十歳前後の生き生きした私のつぶやきである。
末尾になるが、復刻に当たって私には誉めすぎとも思える素情らしい巻頭言を贈っていただいた正木晃先生と、快く挿絵写真の提供をいただいた岡橋実浄氏並びに藤田庄市氏、金峯山寺写真部に御礼を申し上げたい。また初版完売以来埋もれつつあった本書を、世に出してやりうという誠に奇特な提案をいただいた白馬社の西村孝文社長にも、深く感謝の意を捧げるものである。
平成十七年乙酉二月 齢五十の記念として 田中利典 師
西町アイタウンでHP:綾部の文化財を展示

通勤帰りに通るといつ見ても、西町アイタウン目抜き通りの一等地のショ−ウインドウが空いています。西町商店街の振興にも役立つのではと思い、北都信用金庫西町支店に申し込みました。
6月一杯は空いているのでどうぞのご返事をいただき、四方事務局長に了解を求め、翌日からは用務が重なるので即日の3時からと決定、鐙常任幹事にも急なことでの無理を云い3人で展示しました。
2月の大本節分祭以来の展示なのか?蜘蛛の巣は張り、ゴミだらけの状況で、掃除機、脚立、押しピンを北都信金さまにお借りし展示し終わりました。
二間のブ−スがあり思ったより広く、昨年の創立35周年記念式典展示のもの、その後の取材したもののHPカラーコピ−を張り出しました。
翌日、追加補充をすませ、文字は読みづらいので写真ペ−ジを中心に、綾部市の指定文化財、会報記載記事集録の写真追加HPの殆どが展示できました。

年輩者などパソコン、インタ−ネットと縁遠い方も多々おられますが、HPコピ−を展示するのは、IT(ハイテク)との谷間を埋める試みでもあり、「文化財と人とのふれあい」を進める綾部の文化財を守る会の趣旨にも合うと考えています。
どうぞ見に行ってください。
あなたの村、街の社寺、お祭り、あなた自身も写っているかも。
重要文化財 木の花庵(本宮町)

宗教法人:大本にある重要文化財「木の花庵」が実際にお茶室として使われているところを、「文化財と人とのふれあい」の取材として計画、大本協賛会総会を取材させていただきました。

旧岡花家住宅(木の花庵)の文章は文化財の会報からの収録です。HPアップしました(ここをクリック)。
願成寺(別所町)

藤原(平安)時代の作といわれる熊野十二所権現の本地仏が分置されている。藤原時代に流行した浄土教の影響で、紀州の熊野神社に十二所の本地仏が定まり、永暦年間(1160〜61)京都に新熊野神社として勧請され、王城鎮護の神として祀られた。吾雀荘(あすずきしょう)志賀郷は、その荘園として寄進され、守護神として別所熊野神社に十二所権現像が祀られたのである。
HPアップしました。
しだれ桜の下、和尚を囲む、るんびに苑の子供達(八津合町)

上林禅寺の黒川泰信禅師より、桜の見頃と「るんびに苑」の児童たちの観桜会のご連絡をいただき、好天の中を禅寺に到着、引率の先生に断りを入れてから取材しました。子供達は本堂で黒川禅師の点てられる「お薄」を1人1人いただき、羊羹を食べ、日本文化に親しんでいました。

禅師のお話のあと、名木:シダレザクラの咲き誇る庭に出て、本堂の縁側に腰かけ、お昼を楽しんでいました。
襖絵も拝見し、花の寺の写真を撮ってきました。
HP編集中しました。
上林禅寺の襖絵・名木:シダレザクラ(八津合町)

上林禅寺の襖絵HP収録に加えて、
「花の上林禅寺」の取材を問い合わせたところ、黒川泰信禅師より「桜の見頃は10日過ぎ」のご連絡をいただきました。
併せて10日(日)11:30〜「るんびに苑」の児童たち、
11日(月)10:00〜奥上林月曜会の高齢者たち、
15日(金)5:00〜檀家の方々の読経会(本堂)があるとのことです。
「文化財と人とのふれあい」の取材をしてきたいと考えています。
福田神社発見の棟札と鬼面(大島町)

大島町の福田神社を尋ねて、中筋小学校前の川に沿う道で5人連れの墓参途中と思われる人に聞くと、知らないと云われた。少し行くと甲ケ岳に向かって道があり鳥居が見えた。そこが福田神社で随分大きなお宮さんだった。しかし彼岸の中日、好天気にも関わらず取材中、人姿がなかった。
社寺の所在地は、地元でも年輩者に聞かないとまず分からないのかも。

故山下潔己氏の記事をHPに再録、福田神社の写真を追加しました。
史蹟 廣胖堂跡(栗町)

史蹟 廣胖堂跡
石碑裏面に書かれた文章:HPアップしました。
慶応2年(1866)8月、十代綾部藩主九鬼隆備が郷学校として、この地に廣胖堂を設立する。明治6年、廣胖尋常小学校となり、後に彛典校と統合し、明治26年、以久田尋常小学校となる。
藩校および郷学校
綾部藩では四代隆寛の頃、藩校を進徳館と改め、藩士の教育に力を注いでいたが、慶応元年、十代隆備は藩の碩学近藤勝直を総督に任じ、大いに藩校を充実すると共に、領内栗村、高津、小畑等六ケ所に郷学校を建てて庶民教育に努力した。中でも栗村の広畔堂は、郷学校中随一のもので、近藤勝直の高弟沢井広重が専任教師として指導にあたった。門人には羽室嘉左衛門、芦田鹿之助、波多野鶴吉他地方のために活躍した人を多数輩出し、明治における綾部発展の基礎となったことは郷土の教育史上特筆すべきである。
封建制度下百姓町民も自由に入りうる学校が藩の力で作られたことは日本の歴史のうちでも稀なことで、綾部はおろか遠く亀岡あたりからも入学を希望して多くの人が集まった。
こうしてこれらの郷学校は明治五年学制発布によってその伝統を受け継いでいく各地小学校として発展して行った。
長福寺(栗町)

四方續夫事務局長より廣胖堂蹟の場所を聞いていたが、分かり難いとのことで、長楽寺の取材報告で出来上がったHPコピーを西田好三先生に持参した帰りに寄ってみた。栗町交差点の北で適当に入り、若い人に尋ねたが知らないとのこと、さらに車を南に走らし年配の方に聞くと判明した。

写真の「長福寺」前の道を少し行った所にあった。物部街道からも見える所であった。本尊:十一面観音(綾部西国観音霊場札所 番外2番)
長楽寺と源頼光の伝説(新庄町)

鬼退治と源頼光の伝説
今から996年前、一条天皇の正暦元年(西暦990年)源頼光が大江山の鬼退治を無事に終っての帰り道、この長楽寺にお参りして休息をとったと伝承されている。
この時、頼光が杖についていた槌の木を境内に挿しておいた処、その櫨(はぜ)の木がやがて芽を出して、遂に見上げるような大木に成長したといわれ、このことによってこの寺の山号を、櫨の名をとって久櫨山長楽寺と名づけたと伝えられている。

会報より西田好三先生の記事をHPに収録し写真を追加しました。
彫刻師:柏原の中井氏について

会報より故山下潔美氏の書かれた表記のレポ−トをHPに収録した。
改めて八津合八幡宮(八津合町)に行き彫刻の写真を撮ってきた。京都府指定文化財の本殿正面。鳳凰?が上から下がり、欄間?は上段に龍の彫り物、下段に唐獅子三頭?が彫られている。

内側に力士が柱を支えたり、右面に鶴、左面に亀、角柱にも像、獅子など立派な彫刻があまたの豪華な内容であった。
修験道って面白い!:田中利典氏著

綾部の文化財を守る会からの回覧です。
見出し:修験道の修行は、大自然の中で風を拝み、岩を拝み、本を拝みながら行われる。現代の日常生活では考えられない過酷さである。
しかし、その修行に魅せられ、何度も繰り返していくうちに不思議な力を得るのである。それは、こころと身体の理想的な調和であり、生と死を超越する「行」の世界の体験である。
大峯奥駆修行は、その代表である。近年、多くの一般の参加者か山伏たちとともに修行に入っている。
山中修行の体験で蘇った人々はやがて、日常生活の中で自分とその回りを変えていくだろう。
大挙修行:大峯修行とは
古野から熊野にかげて紀伊半島の中心を背骨のように貫いて存在するのが、霊峰大峯山脈。修験道の開祖役行者によって聞かれた、最高にして最大の修験根本道場である。
未だに女人禁制を堅持することで知られる大峯山山上ケ岳。その山上ケ岳一帯を含む北端の古野山から南端の熊野本宮に至るまで、弥山、八経ケ岳、釈迦岳、行仙岳、笠捨山、地蔵岳、大黒天岳など仏縁に繋がる山名を冠した、千五百メートル級の山々が続く大峯山脈全体を信仰的に尊称して大峯山と呼ぶ。まさにここは修験道の聖地中の聖地なのである。
因みに大峯山のうち、古野山から山上ケ岳に至る山々を金峯山(きんぷせん)と呼び、山上ケ岳とは金峯山の山上にあたるところからその名を得たといわれる(だから本来は大峯山山上ケ岳ではなく、金峯山山上ケ岳か正しい)。この古野・大峯を中心に、我が国独特の民族宗教・修験道は千三百年の歴史と文化を刻み、その信仰を脈々と現代に伝えてきたのだ。
一般にその名が知られる修験道の奥駈行は、大峯山脈を尾根づたいに約百七十キロにわたって跋渉する修行である。大峯奥駈道こそ、開祖役行者に由来する修験道史上最も尊ばれた修行道なのである。
古野・大峯とそこにはぐくまれた修験道の営みを知ることは、むずかしく言うならば日本の基層の文化と宗教に触れることである。またそこを体験することは単に自然に親しむということだけではなく、大袈裟に聞こえるかもしれないが、日本人としてのアイデンティティ(自己同一性)のひとつを取り戻すことでさえあると私は思っている。・・後略
行力(ぎょうりき)
前略:かといって修行をして、なにも験力を得ていないのかというとそうでもない。私は常々「葬式は霊魂の存在を前提として行うものであるし、加持祈祷は奇跡を前提として行うものである」と思っている。その体で言うなら普段の法務で行っている護摩供修法や加持祈祷の諸作法は、基本的には人智を超えた神仏による奇跡が前提とたっているのであり、その奇跡が行われるのは偏に行者の行力が背景にあるからこそであろう。いわゆる験力ともいえよう。私も頼りないながらも、修行で得た験力を基本として、加持祈祷に臨んでいるのである。実際、行中にいろんな不思議を経験することは多い。・・後略
久田山H1号墳

久田山H1号墳
この古墳は直径豹18mの円形の古墳で、南側に幅約10m長さ約7mの小さな「造り出し蛾」が付属することから帆立貝式古墳とも呼ばれるものです。
由良川流域の平野部を見下ろす丘陵上に築造されていることから青野遺跡などに住居を構えていた豪族のお墓と考えられます。
この古墳の築造された年代は古墳時代中期、西暦5世紀ころ(今から1500年程昔)とされています。

久田山にはこのほか60基ほどの古墳があり、円墳のほかに方墳、前方後円墳なども見られます。
久田山古墳群は、綾部市内では以久田野古墳群に次いで大規模な古墳群で、また最も保存状態の良い古墳群です。
古墳=埋蔵文化財は、私達の祖先の歴史を知る上で失うことのできない貴重なものです。これらの文化財を大切にし、私達の子孫に伝えていくようにしましょう。綾部市教育委員会
山家史誌を編纂して

西原など山家一帯の文化財を解説した資料として、西村会員から「山家史誌」を拝借しました。文化財の会報に「山家史誌を編纂して」が掲載されており収録しました。この収録文にも書かれていますが、西村会員に伺うと、山家史誌の編纂委員の方は殆ど皆、故人となられたそうです。先覚者のご努力の結果を利用させていただく有り難さを一際感じることでした。

表紙と、山家各町区の文化財地図など立派な資料です。
仁王像始末記 坂根義夫氏

山家藩谷氏の菩提寺であった覚応寺(旭町)仁王像が売られ、海外流出の問題が起きたのが、綾部の文化財を守る会が創立されたきっかけである。
写真は仁王さんのいない覚応寺山門。上林に向かう府道1号線のすぐ左手に建っている。HPアップしました。
志賀の七不思議 竹の子さん(篠田町)

高低のある「御ミノシベ」と呼ばれる篠田神社の裏に幅一杯の正方形に囲われた竹林から3月4日の11時を期して「わせ」「なかて」「おくて」の竹の子を収穫「お刈り」して、「一年間の吉凶を占う」という「竹の子さん」。
手をシャベル代わりに使い、泥をかき分けて竹の根を掘りだし、鎌、鑿、小刀で根を切り取る。手が泥んこのすさまじさでした。

生えている所(高低や方角など)で、どの場所(水田などを想定)が良いか、生え具合(例えば曲がっていると何か凶がある)、何時の時期か(おくてなら年の終わり頃)など、色、つやで病虫害など・・見るのだそうです。良く当たると信じられてきた。
昔は梅迫(鉄道)から行列でお参りがあったとか。
この神社に参った人から一人も戦死者が出なかったとか・・
御利益あらたかな神様(占い)のようです。
HPアップしました。
西原遺跡について(西原町)

文化財を守る会の会報より故木下礼次先生の書かれた「西原遺跡について」を収録した。写真は、西原の西村会員に案内していただいて撮影した。
写真:「申酉古墳」

西村会員が持参いただいた「窯跡」から出土した「土器・瓦片」です。
詳しくはHP参照ください
熊野神社(西原町大塚)

小雪のちらつく中で西原町の熊野神社を取材した。「巨巌信仰」と言うことで会員の西村さんに聞いていったが、雪の積もった「大岩」を写真に撮った。
ところがHPを編集してコピ−を西村さんに見せると、裏から見なければと案内していただいた。

「巨巌」の上に社が建っているので正面から近づいたのでは、岩の上に登ってしまい「大岩」であるが、「巨巌」にはなっていないのであった。
やはり地元の人の案内が必要だと思った。
HPアップしました。













