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綾部の文化財

綾部の文化財ミニ・シアター2 於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞

綾部市総合文化祭参加の「綾部の文化財ミニ・シアター」第1日目11月2日(火)第2番目のイベントは1:30から、綾部市文化協会理事長:吉田 晟風氏(文化財を守る会会員)をゲストに迎え行われた。テーマは「於与岐八幡宮芸能祭礼:天狗の鼻高の舞」

綾部の文化財ミニ・シアター於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞
スライドで映写する「ホームページ」や「ブログ」のコピーが日替わりで貼り出されている展示 ハイライトの「A4写真」もある

イベント開演に先立ち「くらしを彩り、人々のコミュニケーションを深め、地域の活性化を生み出す、文化財と人とのふれあい」をテーマにした2800枚を超える写真スライドから、今回の話に関連する「八田地区」の172枚の連写を行った

綾部の文化財ミニ・シアター於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞
ゲストに迎えた綾部市文化協会理事長:吉田 晟風氏

まず、於与岐関連のHPを3編映写しながら説明を行う

綾部の文化財ミニ・シアター於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞
5月に行われる丹波富士:弥仙山の山開きと三社大祭・山菜まつり

同様のHPやブログ記事もたくさんある
http://www.nbcayabe.com/misen/misen/sansya.htm
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/635.html
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/283.html
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/284.html
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/285.html

綾部の文化財ミニ・シアター於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞
改心の道遊歩
11月に行われる改心の道遊歩 於与岐ー弥仙山ー笹尾山ー上林縦走
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/784.html


明日、前綾部市長:四方八洲男氏を迎えて紹介する事項を話す
弥仙山から寺山へ平和コール
 21世紀を迎える元旦のご来光を仰ぎに、寒風暗闇をついて、20cmの新雪を踏んで於与岐の吉田晟氏(現文協理事長)等と弥仙山に登り、頂上から頭巾山にあがるご来光を仰ぎました。ノート・パソコンを持って上がられた吉崎孝典氏(守る会会員)は、HP「弥仙山の四季」で平和メッセージを発信されました。
 寺山の平和祈願を終えられた四方市長様に携帯電話でお電話し、元旦のご挨拶をいただきました。

綾部の文化財ミニ・シアター於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞
10月に行われる於与岐八幡宮秋祭り 天狗の鼻高の舞

綾部の文化財ミニ・シアター於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞

http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/178.html

綾部の文化財ミニ・シアター於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞
会報:綾部の文化財シリーズ 於与岐八幡宮 綾部八幡宮芸能祭礼保存会代表:吉田 晟氏寄稿の記事

於与岐八幡宮の沿革(由緒)
味方町にある第1の鳥居跡;伝承によると武内宿祢の遠裔の吉田七朗兵衛なるものが発起し、西暦710年人皇四三代・元明天皇の和銅三年に豊前の国宇佐神社より御分霊を拝受し、勧請し、一の瀬に祀る。当時氏子は何鹿郡(現・綾部市)の味方村以北、下八田、淵垣中村、安国寺、梅迫、上杉、於与岐に至る七ヶ村の惣社であった。その根拠は現味方町の旧道を綾部側から鉄道のトンネルを越えていくと右手に大正元年八月建立の「於与岐八幡宮第一の鳥居跡」の高さ1.7メートル、方25センチメートルの碑がある。又旧道の淵垣町の二の宮神社の幟立ての横に同様の「於与岐八幡宮第二の鳥居跡」の碑がある。そして、上杉町鳥居野公民館前の左手に大正七年十月再建の「於与岐八幡宮第三の鳥居跡」の碑が現存しています。
 鎌倉時代は幕府の功臣・勧修寺重房が、京都より宗尊親王を将軍として迎えた功より上杉の姓を授与され、そのバックアップにより、又娘・清子を足利貞氏の家女房として迎え、初代将軍足利尊氏をもうけて何鹿郡(いかるがぐん)味方村から舞鶴の田邉までをもその勢力に抑えていたと思慮される。又、渕垣八幡宮は社殿によると1343年(康永二年)造営と記している。当時は足利尊氏が綾部安国寺を建立した時であり、於与岐八幡宮の分霊であるともいわれている

綾部の文化財ミニ・シアター於与岐八幡宮の天狗の鼻高の舞
上記のご自身の会報記事に基づき、於与岐八幡宮の沿革、天狗の鼻高の舞い(王の舞い)など熱心に説明いただく吉田 晟氏

於与岐八幡宮祭礼芸能について
 於与岐八幡宮の祭礼の特色は、祭礼が氏子の株組織と密着して宮座の形をとって伝承されてきたことである。戦後そのしきたりがすたれたが、宮座を残したものとして注目される。祭礼は陰暦では八月十五日であったが今は、十月十五日に近い日曜日に行なわれる。昔は祭礼の三日前打ち合わせの口あけ講をし、禰宜役二名が舞鶴に出向き身を清め証拠に海藻を持ち帰り、他の役は昔あった「いみ屋」で祭日まで精進潔斎をしていたという。今は九月三十日夜八時半頃、一の瀬の「小社」に宮司と神社総代四名が「宮迎えの行」をしている。

 大祭当日は朝八時於与岐町の四ヶ村に「ふれ太鼓」でまわる。九時半頃本殿において祭典が宮司、禰宜二名、神社総代、自治会長、棒頭(神輿の責任者)が参加して祭典が行なわれ、三柱の神を神輿に移す「御霊遷(みたまうつし)の儀」がありその時は、幕とじ一般の人はこの儀式は見ることが出来ない。その間、楽殿では「宮座」の形、すなわち一の瀬に創始した時の祭礼役・六役がそれぞれ同族に世襲されている。即ち禰宜役は吉田、上野の二家に鼻長役は吉田株二家へ、獅子役(獅子舞)吉田、吉崎、坂田株四家へ、庭雀役(ムシロを敷いて迎える役)は坂田株一家へ、御饌役(おせん・神にお供えする食事)を炊き奉った者を御饌炊と称し、吉崎株へ、初めて神輿を担いだ者を駕篭丁と称し、山口、吉崎、吉田、井上、滝花、野瀬井、坂田、大久保の十一株へ伝わり、又、昔は奉行役は古小袴と称し、相根・吉崎、吉田株に伝わっていましたが、今は区長、氏子総代が勤めている。

 これらは吉美地区の式内社・高倉神社では宝暦十三年(1763)の記録では有岡町のみが出すのが笛役、太鼓を打つ役、ヒヤソ踊の「ビンササラ」役五名、多田町のみが出す役、天満宮太鼓と打ち手、担ぐ役、「ビンサラサ」役 五人、ビンササラ役は他に、里町七人、小呂町四人、星原町三人の合計二十四人で各自のビンササラは二十四本で首にかけて、一踊り毎何番ソーレと声をかけるのが今でもしきたりである。

 さて、吉美のことはさて置き、儀式が終わり、着替えが終わった頃に、禰宜が舞楽殿へ来て御祓いをし、神社拝殿前に順次そろい、行列を組み、現在では神社の周囲を三回まわる御旅をする。終わって、庭の東方に神輿三基を塀並行に安置し、その前で獅子舞・鼻高の舞が奉納される。獅子舞は二人立ちで伎楽系のものである。鼻高の舞は一人が演ずるもので、白衣を着て天狗の面をかぶり、小鈴をつけた木鉾を持って舞う。鉾で地面をかきならしたり、足でふみしめたりする所作は国生みの神話を形どっている。田楽は、ビンササラ一人、太鼓三人の編成で、神輿の御旅をはやしながら先導するものである。(ア、オーハト)いずれも風化が著しいが、王舞・獅子・田楽をセットとする祭礼芸能を伝えている。この祭礼芸能のあり方は鎌倉時代に京都を中心に盛行したもので、その形を伝えていて貴重である。

獅子頭之舞
一、北方に向かって三拝
二、神輿の一の宮に三拝
三、二の宮に三拝
四、三の宮に三拝
五、御休憩所の注連縄の内を、太鼓の音に合わせて、並みの歩調で一回りする。
六、各神輿に一拝し、早々歩調で一回りする。
七、各神輿に一拝し、走り歩調で一回りする。
八、終わりに一拝し、拝殿に戻る。

鼻高の舞(王の舞)
木鉾先に小鈴を付けて持つ。木鉾は、素手で掴んではならない。
第一動作 参拝: 神輿の前に進み、足を広げて立ち、各神輿に参拝。これを三回・計九回行なう。
第二動作 捜す: 鉾で四方の地上を打つように。最後は雫を落とすように突き出す。
第三動作 地固め: 鉾を持って北方から地上を掻き回し、掃き均した後、此処彼処と足で踏み固める。北、南から二回
第四動作 舞: 鉾を神輿に面して立てる。大いに悦ぶ客姿で首を傾け透かすように鉾を見つつ五六歩後に退き。足摺りで鉾の下に進む。北、南から二回
第五動作 参拝: 神輿に向かい一礼する

関連HP
http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/oyogiy/akimaturi.htm
http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/155.html

続いてビデオ上映にうつり、詳しい解説を吉田 晟氏にお世話になった。
ビデオ名:京都府府登録 無形民俗文化財祭礼芸能
 「於与岐八幡宮の祭礼芸能」 ビデオ提供:綾部市資料館


最後に文化財を守る会会長:村上高一氏より謝辞があった

テーマ : 歴史大好き!
ジャンル : 学問・文化・芸術

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